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より良いものをあきらめないこと

どんなに気をつけてても加害することはあって、気づいて謝ったとしても別に許されなくて、気づくチャンスすらも与えてもらえないかも。

だから学ぶこと、コミュニケーションとることが大事で。そしてたとえどんなに罪深くても、より良い自分とより良い社会をあきらめないってことが大切だと思う。


するっと出てきた言葉に、はっとした。
私が8月くらいに思い悩んでいたことを思い出した。

自分が、加害されても一歩も動けないじゃないか? 今まで考えたりこうしようと思ってた方法で闘ってみたけど、闘い続けられないじゃないか? 私こそ被害者非難に加担していたじゃないか? バウンダリーを侵害しまくっていたんじゃないのか?

一個一個すごく重い問いをつきつけられていた。

学んだこと、広めたいこと、救われてほしいと願う相手のためにがんばって調査や議論を重ねていること、これらは私自身の被害はまったく救ってくれないじゃないか? 司法の網にかからない性被害なんてどう消化すればいい。

こんな風に被害者非難に加担したりしてしまうこともある私が、性的同意を広めて性暴力抑止しようなんて不適格なんじゃないか?

ちょうど仕事の佳境でもあって内省の時間も十分取れず、他のことしてるときとかも脈絡なく涙が出てきてしまうようなありさまで、ただただ絶望してつらかった。

たしか、その場は友人と話したことで救われた。罪を感じていることとかは話さなかったし、きっと社会通念は変えることができるとか、ちょっと元気なさそうだから休日取りなとか、最近やってる工作とかそんな他愛もない話だった。でもそれ以上に、存在不安と社会不信抱えるとこまで行ってる状態で安心して本音を吐露できる相手がいたという単純な事実に……そして私の話を愚痴を垂れ流して迷惑かけてるって感じにならずに興味深く聞いて考える時間にしてくれたことに安心して、やっと息を大きく吸うこと、「大丈夫」な位置まで自分を取り戻すことができたのだと思う。

それ以降も色々考えることはあったけれど「罪はあってもより良い自分とより良い社会をあきらめない」っていう言葉まで出てくるようになったんだなってちょっと感動した。もちろん7月以前に言葉としては言っていたと思うけど、もうここまで戻ってこれないんじゃないか、と思ったから。

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