8月6日。八田竹男「吉本新喜劇」

八田 竹男(はった たけお、1914年9月15日 - 1991年8月6日)は、吉本興業社長。興行師、芸能プロモーター。

戦前の1937年、吉本興業に入社。戦後は事業部、制作部の部長などを歴任。戦後は映画館経営に専念していた吉本興業に演芸部門を復活させ、うめだ花月、京都花月、なんば花月など演芸場を次々と開設し、今日の「笑いのヨシモト」を築き上げた。1977年には橋本鐵彦の後を継いで社長に就任。1986年、健康を理由に社長業を勇退した。

後に低迷していた吉本を立て直した木村政男は、八田が亡くなったとき次のように記している。京都花月の新入社員であった木村は制作担当の取締役時代から、上司として仕えていた。仕事師の面目がよくわかる解説だ。

早稲田大学に入り、中学時代からの同級生であった森繁久彌と演劇活動に励んでいた。中退をして戦前の吉本に入る。戦争で劇場の大半を焼失した吉本は、銀行から300万円の融資を受け、映画館から事業を再開させる。しかしテレビの台頭により陰りの見えた映画事業に代わって、演芸界への復帰を林社長に強く進言をした。新しい喜劇を作って、梅田花月の中継をMBSに任せる独占契約を結ぶことにした立役者となった。カミソリのような鋭さがあり、芸人、社員も恐れていた。手にはいつも本を持っていた。戦後の吉本の発展の礎を築いた多大な功績を遺した。八田が始めたのが「吉本ヴァラエティ」、後の「吉本新喜劇」だ。

八田竹男も、木村政男も、吉本が低迷した時期に腕を振るっている。大小を問わず、多くの組織には上昇と下降の大きな波がある。下降した時期に危機を救う人材があらわれ盛り返す組織が長く生き残る。大企業でも、新興企業でも、必ずそういう循環がある。人物がいるかどうかが、組織の明暗と将来を決めるのは間違いない。

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