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「名言との対話」11月16日。中西悟堂「日本野鳥の会」

中西 悟堂 (なかにし ごどう、 1895年 ( 明治 28年) 11月16日 - 1984年 ( 昭和 59年) 12月11日 )は、日本の 野鳥 研究家で 歌人 ・ 詩人

石川県金沢市出身。5歳で東京に小学校に入学。高等小学校卒業後、紙問屋、給仕などをし、工手学校の夜間部で学ぶ。1911年、天台宗深大寺で僧籍につく。1914年から曹洞宗学林(後の駒澤大学)に通う。1920年から島根県の長楽寺、普門院の住職となる。

30代をむかえた1926年から千歳烏山に住み、昆虫や野鳥の観察を開始し、全国の山々を巡り野鳥の観察を行う。1934年、鳥類学者、柳田国男などの民俗学者新村出などの文化人の後援で、「日本野鳥の会」を設立する。鳥類保護思想の普及と鳥類研究の推進が目的である。探鳥会を催すなど、会員数は1800名に達した。「野の鳥は野に」を合言葉に自然の中で鳥を楽しむことを提唱した。戦後は鳥類保護法の制定にも尽力している。

中西悟堂『フクロウと雷』(平凡社)を読んだ。

「私の家から、谷一つへだてた丘の農家、、」「軽井沢に鹿島ノ森をあるいていると、」など、フィールドワークのたまものであることがわかる。水の中で一日中袋をかぶってカイツブリという鳥を観察する記録は圧巻だった。普段はたった一人で大森林や、深い渓谷、高山を歩き、手帳に浮んできた想念を記録していく。自宅での多くの鳥たちと生活している。家族同様であった。

現在では普通に使われる「野鳥」という言葉は中西の造語である。また「探鳥会」という観察会と言葉も彼の造語である。第1回の富士探鳥行には、柳田国男北原白秋金田一京介ら100人が参加している。こういったオーガナイザー能力は大したものだ。

「昆虫や鳥類や即物の生態の観察には、卓越した多くの綿密な頭脳と、多くの熱意に充ちた生涯とをかけても尚あまりある研討の対象」であると語っている。そのために日本野鳥の会をつくったのである。

「神の無限の才能と創造力とを現実に見るような精巧さと多様さとの驚くべき種々相」「生命の保全と種族の保存との法則に貫かれている生活の万華鏡」「自然は常に最も偉大な師である」「自然が見せてくれる教訓は絶大無限である」「自然の環境に置かれてある限り、人々は常に美と徳との善き調和の中に置かれている」「自然の諸事物は、森の王女のように、心に跳んだ人々に発見される幸運を待ち、言葉を賦与される機会を待っている」

中西悟堂は57歳から冬でもパンツ一枚、上半身ハダカで過ごしている。「心の修養などは、あてにならぬ」「からだの修養からはじめよ」が信条であった。15歳年下で、悟堂が40歳の時に結婚した妻の八重子は「常識というものをどこかに置き忘れてきたような人ですが、人間に対する価値判断はびっくりするほど鋭い。心が童児のようにきれいだという点でも、深く敬意を表しております」と夫を評価している。

日本野鳥の会は存在感を放っている。近所の公園でもカメラを抱えた野鳥観察が趣味の人々をよく見かける。JAL時代に日本野鳥の会と組んでプロジェクトを行ったことを思いだした。新鋭のMD11という飛行機を日本の空に導入したとき、この機種を「Jバード」となずけ、絶滅危惧種の鳥を機種ごとに命名した。ヤイロチョウヤンバルクイナエトピリカなどの稀鳥の名で呼んで保護を印象づけた。このとき、日本野鳥の会の方々と連携した。この素晴らしい活動を行っている団体の創設者が中西悟堂だったのである。


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