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「名言との対話」12月13日。中江兆民「民主の主の字を解剖すれば、王の頭に釘を打つ」

中江 兆民(なかえ ちょうみん、弘化4年11月1日1847年12月8日) - 明治34年(1901年12月13日)は、日本思想家ジャーナリスト政治家衆議院議員)。享年54。

高知出身。土佐藩の留学生として長崎にて坂本竜馬と出会う。江戸でフランス学を学ぶ。 1871年、司法省から留学生としてフランス留学。1874年帰国。東京外国語学校長。元老院権少書記官となるが、1877年辞職。1881年西園寺公望らと「東洋自由新聞」を創刊(主筆)し自由民権論を唱え、ルソーの社会契約・人民主権論を『民約訳解』で紹介し「東洋のルソー」と呼ばれるなど、自由民権運動の理論的指導者となった。

保安条例で東京追放の後は1888年以降、大阪の『東雲新聞』主筆として、普選論、部落解放論、明治憲法批判などを展開した。1890年の第1回衆議院議員総選挙で、大阪から被差別部落民の支持を得て当選。その後は、新聞、鉄道事業などを多くを手がけるが、いずれも成功していない。

経歴を眺めると、実に多くの人物と縁がある。坂本龍馬、福地源一郎、大久保利通西園寺公望後藤象二郎、、、、。魅力的な人物だったのだろう。

号の「兆民」は億兆の民の意である。「秋水」と名乗ったこともあるが、弟子の幸徳伝次郎に譲渡している。帝国憲法発布時には、「玉か瓦か、また、その実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる」と秋水に嘆いている。

アバタ面で背は高くなかった。性は豪放磊落で日常生活は無頓着であり、狂人や乞食、賭博の親分などと間違われたエピソードがあるなど、奇行、奇談の多い破天荒な人物だったようだ。

兆民は、喉頭がんで余命は1年半と宣告されるや、ただちに『一年有半』を遺稿として書き始めた。終えた後は「続一年有半」を10日ほどで書き上げている。こういう厳しさも参考にしたいものだ。日本人に欠けているのは「考える」ことと指摘している。「わが日本古より今に至るまで哲学なし」という言葉もある。この二書はベストセラーとなった。

中江兆民の代表作は、『民約訳解』、『三酔人経綸問答』、『一年有半』である。『三酔人経綸問答』では、洋学紳士、豪傑、南海先生の3人の酔っぱらいの対談で、笑いながら読めるが、内容は一種の哲学書である。秋水は「先生の人物、思想、本領」を知るにはこの書に如くはなし、と評価している。

たまたま読んでいた2023年12月15日の日刊ゲンダイではノンフィクション作家・保阪正康が、兆民の息子の丑吉について書いていた。丑吉は東京帝大を出て中国にわたる。独学で勉強し、独自の考えを貫いた人物だった。北京の家には関東軍の幹部から佐野学など共産主義者までが訪ねてくる梁山泊だった。満州を日本のものにするにはどうしたらいいかと軍人から相談を受けると、「日本のものにするなどおかしいんだ」と叱った。共産主義からの転向者の青年が戦争で相手を鉄砲で撃ちたくないと相談すると、「鉄砲を上に撃て」という。相手から撃たれて死ね。それが誠実に生きた証拠であり、歴史に生きることだと諭した。保阪は中江丑吉を尊敬している。

「民主の主の字を解剖すれば、王の頭に釘を打つ」と喝破した中江兆民には、「自由はとるべきものなり、もらうべき品にあらず」、「官は手足なり、民は脳髄なり」、「剣をふるって風を斬れば、剣がいかに鋭くても、ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか」などの名言もある。後の石橋湛山中江兆民福沢諭吉を評価していた。民が王の頭に釘を打つのが民主である。


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