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2月6日。 赤尾敏「辻説法」

赤尾 敏(あかお びん、1899年(明治32年)1月15日 - 1990年(平成2年)2月6日)は、日本の保守政治家、右翼活動家、衆議院議員、大日本愛国党初代総裁。

19歳で武者小路実篤の影響を受けて三宅島でユートピア「新しき村」をつくろうとする。挫折した赤尾敏は3年後に島を出る。

左翼活動家として拘留中に東京の人口の47%が羅災した関東大震災に20代で遭遇。仲間の裏切りと、ムッソリーニの影響で左から右に大転向する。赤尾は自らの思想を、天皇制社会主義、日の丸社会主義と称した。

37歳のときには「二・二六事件」にニアミスする。後に赤尾敏は「日本の右翼にはそういう他力本願的な弱さがあるね。戦後だって、この傾向は残っている。自民党に、ああしろ、こうしろと建策だけをやっている。自分で政権をとって自分で政策をつくっていこうという意欲がなくっちゃ。だから、日本の右翼には政策がない、なんていわれる。他力依存ではダメだ」と語っている。

41歳、1940年には「一歩誤れば日本はソ連と英米を腹背の敵として極度の苦戦に陥るだろう」「玄関先で米英と闘っている間に、裏から赤い恐るべき敵が迫っている」と語る。米英の自由主義とソ連の共産主義は根は同じだとみていた。尾崎秀実は「戦時中、反ソ反共の立場から公然と理論的に戦争に反対したのは赤尾敏一人」と証言している。1941年の衆議院選挙では大物・頭山満を選挙事務長として当選する

46歳、終戦。公職追放が解除されると、1951年に52歳で大日本愛国党を結成。赤尾敏の思想に共鳴する人がゆるやかに連携するボランティア組織である。翌年の総選挙で落選、以後衆院、参院、都知事選と選挙のたびに立候補するが、当選はしなかった。

藤本儀一「人生、一本スジを通して生きている人ほどすばらしい人はいない」。保坂正康「終生のロマンチスト」。

銀座数寄屋橋などでの辻説法による過激な街頭演説で有名であった。数寄屋橋は東京の真ん中というその理由である。雨の日だけが休みで、日曜日も「出勤」していた。東京丸の内に勤務中に私も「あれが赤尾敏か」と思いながら何度も見た記憶がある。赤尾敏の主張は「国体護持」と「反共・愛国」である。赤尾のいう国体とはイエスの道、釈迦の心と、皇祖皇宗の御仁愛の精神である。赤尾は最期まで部屋に明治天皇、釈迦牟尼尊、イエス・キリストの大きな肖像画を飾っていた。

91歳の生涯で3万回以上の辻説法を行った、辻説法は鎌倉時代の『立正安国論』を書いた日蓮が有名だ。浄土宗などを邪法を非難し、このままでは内乱と外国からの侵略を受ける、正法である法華経を中心とすれば国家・国民は安泰であるとの主張であった。同じように赤尾敏は数寄屋橋交差点という大辻を舞台に生涯にわたって行き交う人々に向かって訴え続けた。今では政治家は街頭演説を行うが、魂が宿っている感じはしない。今も目に焼き付いている赤尾敏の姿は日蓮を彷彿とさせる魂の入った辻説法師の姿である。

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