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「名言との対話」6月21日。スカルノ「私が軍服に身を包むときは、私は同時に自信のマントで精神を包むのである」

スカルノ(Sukarno、旧正書法ではSoekarno、1901年6月6日 - 1970年6月21日)は、インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家である。

スカルノはジャワの下級貴族の父とバリの貴族であった母から生まれた。スカルノは新設されたばかりのバンドン工科大学に入学する。植民地状況の中では相対的に恵まれた境遇であった。スカルノが尊敬していたのは2人だった。アメリカのジョージ・ワシントンとトマス・ジェファーソンである。

背が高く眉目秀麗なスカルノは、火を噴くような雄弁と魅力的な笑顔があり、民族主義運動の主役となる主役となっていく。スカルノは「戦時中訪日したときの皇室の後種具一日本の朝野から受けた厚遇は一生忘れることができない」と率直に語っている。スカルノは日本が唱える「アジアの抑圧された諸民族の旗手日本」という標語の欺瞞性を見抜いていた。

1940年8月17日の独立宣言後、同国の初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した。1946年、オランダ軍と停戦協定を結ぶが、それから独立軍とオランダ軍との戦いがあり、スカルノも投獄されるが、ようやく1949年12月のハーグ協定の締結によってオランダはインドネシアを放棄する。1955年のバンドン会議の成功によってスカルのは、米ソ以外の第三世界の指導者の仲間入りを果たした。

スカルノ第3夫人、デヴィ・スカルノ。本名は根本七保子である。深田祐介の「神鷹商人」などでも数奇な半生がわかる。1959年4月にスカルノが訪日した際に、赤坂のクラブで会っている。9月に単身インドネシアにわたり、美貌と才覚で大統領夫人としての地位を確立した。英語、フランス語、インドネシア語をあやつる美貌の第3夫人として活躍した。デビルートは緊急時スカルノと短時間かつ確実に連絡のつく日本との最も有力な方法であった。デヴィ夫人のおかげもあり、日本との関係は良好だった。

スカルノは1965年の「9月30日事件」によって、左派軍人クーデタに対処したスハルト将軍によって退陣をよぎなくされる。1970年6月20日、革命家であり、建国の英雄、国父スカルノは生涯を閉じる。

デヴィ夫人は、スカルノの死後から50年後の今日でも日本と世界でも活躍を続けている。以下、語録から。「何か辛い事とか、すごい問題がある時、これは神の試練だ、これを乗り越えなきゃっていう風に、全て神の試練という事でやってきました」「長く生きていたら、人はミステイクなんていくらでもあるわ」。極め付きは「ほとんどの方は毎日を”生活”しているけれど、私は毎日を”生きている”」だ。確かに、デヴィ夫人は生きているという感じがする。

「国家のためなら悪魔にも魂を売ることを辞さない」といっていたスカルノは、 植民地状況を経験した人種にとって指導者は威風堂々として力がみなぎっていることが必要だと考えていた。仕立てのよい服装と自信に満ちた顔の表情によって、複雑な国内事情を克服し、怪奇な国際情勢の海を泳いだのだ。服装はメッセージである。

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