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「名言との対話」6月12日。伊藤忠兵衛「商売は菩薩の業」

伊藤忠兵衛(2代目。いとうちゅうべえ、1886年(明治19年) 6月12日‐1973年(昭和48年) 5月29日)は日本の実業家。
滋賀県出身。初代伊藤忠兵衛の次男として生まれ、1903年の父の死去に伴って学業を断念し、後継者となった。1939年伊藤忠商事会長。1940年には、伊藤忠商事、丸紅商店、岸本商店を再合併し三興株式会社を設立し会長に就任。1944年大道同貿易、呉羽紡績を合併し大建産業株式会社を設立し会長。1945年、敗戦を機にすべての役職を辞任した。1947年、公職追放を受ける。1949年、伊藤忠商事、丸紅、呉羽紡績などに分割される。1960年、相談役に就任、後任は越後正一社長。姉崎慶三郎「幕末商社考2」を読んだ。この本では、増田隆、大倉喜八郎金子直吉、住友政和らとともに伊藤忠で1代目が紹介されている。
1920年になると日本は戦後の大不況に陥ってしまい、伊藤忠商事も莫大な損失を抱えた。当時34歳の伊藤忠兵衛は、現在でいえば数千億円という日本一の借金王になってしまう。自宅の庭の灯籠や庭石までも全て売却をし従業員のために骨を折ったこの姿勢を見て債権者団は経営の再建に全面支援を申し出てくれることになった。忠兵衛は後に「屈すべきときに屈しなければ、伸びるときに伸びられない」述べている。
伊藤忠兵衛は近江商人であった。近江商人の経営哲学は、「三方よし」である。自らの利益、顧客、世の中の三方が。良いものであるべきだと言う考え方であった。このことを忠兵衛は実行していた。
初代伊藤忠兵衛の座右の銘を信奉していた。それは「商売は菩薩の業」である。商売道の尊さは、売り手、買い手双方を益し、世の中の不足を埋めることが仏の道にかなうものだという考え方であった。商いと言うものは、道徳と信用が大切という哲学である。
商社不要論、商社斜陽論は、何度も唱えられたが、時代の荒波をかいくぐって、現在でも隆盛を誇っている。その後の伊藤忠商事は、糸へん商社と揶揄され、三井物産三菱商事の後塵を拝していたが、歴代トップの強力なリーダーシップのもとにここ数年は、財閥系の大商社を凌ぐ業績をあげるまでになっている。
渋沢栄一は実業を儒教と結びつけて日本経済を牽引したが、伊藤忠兵衛は商売を仏教、菩薩道と意識していたのである。西欧近代化に、プロテスタンティズムが大いに寄与したように、経済と倫理は強く結びついていることを改めて感じることになった。

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