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3月9日。 大屋晋三「死ぬまでやめない」

大屋 晋三(おおや しんぞう、1894年(明治27年)7月5日 - 1980年(昭和55年)3月9日)は、日本の政治家、実業家。

1945年(昭和20年)11月には社長に就任。その2年後に1947年に参議院議員に当選して政界に進出。吉田内閣の商工大臣を初め、大蔵大臣、運輸大臣を歴任した。その間に、世界有数の繊維メーカー帝人は、ナイロンを開発した東洋レーヨンの後塵を拝すようになる。1956年に社長に復帰し「諸君のなかの一部には、わが社の過去の繁栄の惰性のうえにあぐらをかいて、この幻影をいたずらに頭に描き、わが社にはまだ何かよいものがあるように考えている人がありはしないだろうか」と語りかけ、起死回生の一手「テトロン」を開発導入し、帝人を瀬戸際で救った。

その後、化学とは関係の薄い分野に進出する多角化経営に乗り出し、失敗を重ね、未曽有の赤字を計上する。「死ぬまでやめない」が口ぐせだった社長在任は26年余に及んだ。この動きは1980年に大屋が死去するま止まらなかった。まさに死ぬまでやめなかった。

大屋以降の経営者たちは無謀な多角化路線の事業整理に追われ、20年近くリストラを繰り返し、リスクを避ける消極的な社風が定着し、 かつての大帝人は縮小均衡路線を余儀なくされたてしまった。

「老いぼれが古い頭でしがみついて、しかも後進の道をふさいでいるんじゃ、これはまずいだろうね」「一般には、体力も、気力も、判断力も衰え、知識も時代遅れだ。それなのにへばりついている、それを老害という、、、、。しかしながら、年齢でなしに個人差があるということですね。だからエクセプション(例外)があるというふうに考えないとね」。自分のことは自分ではわからなかった。自分だけは例外とみていたのだ。

高齢による衰えと夫人の人事への介入は、1970年代には雑誌などでも取り上げられたこともあり、この間の様子は私もよく知っている.。大屋は功罪ともに大きな足跡を帝人に残した人物だという人もいるが、功を上回る罪をなしたと評価すべきだろう。「死ぬまで社長をやる」という執念の持ち主・大屋晋三の人生の軌跡は、救国の英雄が国を亡ぼす、その典型を示している。「出処進退」という言葉を改めて感じる事例だ。思想が人間を支配するのだ。


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