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「名言との対話」。2月15日「河合栄治郎「職業にあるものは多かれ少なかれ、分業の害悪をなめねばならない。彼は一生を通じて細かに切り刻まれた仕事に没頭して、一部分としてしか成長し得ない危険に瀕する」

河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - 1944年2月15日)は、日本の社会思想家、経済学者第二次世界大戦前夜における、著名な自由主義知識人の一人。

河合は帝大卒業後、農商務省に入る。第1回ILO会議に対する日本政府案を起草したが、上司と対立し退官する。これに際して朝日新聞に「官を辞するに際して」と題して公開状を発表する。その結びは「官吏生活と云うものは決して若い青年の踏むべき路では無いと云う事である」であった。

東大では社会政策を担当。「帝大新聞」に「二・二六事件の批判」を発表する。反マルキシズムと同時に反ファシズムの立場で著書を刊行。右翼勢力の圧迫を受けて、東大教授休職を命ぜられ起訴され最終的に有罪となる。

河合は官吏生活の経験から、門下生には官途につくことを決して勧めなかった。門下生は多士済々である。学界では、大河内一男(東大総長)、猪木正道(京大教授)、経済界では木川田一隆(東京電力社長)、宇佐美洵日銀総裁)、佐々木直日銀総裁)、菊池庄次郎(日本郵船社長)らがいる。木川田一隆は講義を最前列で聴き、河合の唱える理想主義自由主義に傾倒し、社会に出てからは「電力の鬼」松永安左ヱ門に師事し、右腕として9電力体制を実現した。一方、美濃部亮吉は、東京帝大で大内兵衛に師事し助手になるが。河合栄治郎に嫌われ法政大に転出。こうやって眺めると確かに官界ではなく、学界、経済界に人材を輩出していることがわかる。

1940年(昭和15年)に『学生に与う』を箱根の旅館で執筆するなど、学生叢書の刊行を継続しながら学生・青年に理想主義を説き続けた。河合は近代を代表する理想主義者、人格主義者、教養主義者にして自由主義者であった。

河合は戦後忘れられたが、その河合は分業による職業生活の危険性を語っている。分業とは専門化のことである。全体的視野の喪失を指摘している。現代社会での分業化は避けられないが、専門を持った上で、全体観を常に意識することが重要であろう。

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