見出し画像

11月14日。向井潤吉「風景の面白さは、時、所、季節の動きにつれて千変万化するところであろう。、、、それへの興味がいつまでも現場主義から私を解放してくれぬのである」

向井 潤吉(むかい じゅんきち、1901年(明治34年)11月30日 - 1995年(平成7年)11月14日)は日本の洋画家。

1993年、世田谷区の自宅を兼ねたアトリエとその土地、所蔵の作品を区に寄贈し、世田谷美術館の分館として向井潤吉アトリエ館が開館した。木造の気持ちのいい空間である。向井潤吉は93歳まで日本の民家を描くことをライフワークとした画家だ。訪問した時には「制作日誌」を分析した結果が掲示されていた。それによると2月ー4月、10月ー12月に制作が多い。また描いた場所は、埼玉(32%)、長野(19%)、京都(13%)、岩手(7%)。「私の仕事のはかどる季節は、初冬から5月の間に限定されている。それは民家を描くためには繁茂した木や葉が邪魔になるからであるとともに、緑という色彩が自ら不得手だと知っているからでもある。」

以下、民家に関する言葉を拾った。「日本の民家の美しさ、こういう風土でしかできない形の美にはじめて気がついた」「せめてなくなる前に、昔からの民家のよさを絵に残しておけば何の役に立つのではないかと考えた。だから終戦と同時に、暇にまかせて民家だけを描くぞと決心」「まず娘が学童疎開していた新潟県川口村からはじめた」「私が最も好むのは、信州から東北へかけての、大振りの農家の点在する地方である」「私の民家を扱う気持ちにも徐々と変遷があった。、、、むしろ家を大切にしながらも、その家を取り囲む風土風景を主とするようになってきたのである」「、、民家と、その所在する界隈との調和、風土風物の組み合わせに重点がかかってきた」。

1952年の朝日新聞の「茶の間」に寄稿した「職業」というエッセイが面白い。子どもの頃のから画家になるとしたが、次は外国航路の船員。、、、兵隊を出てから高島屋百貨店、、、そして画家になる。「しかし世間の人々の職業というものは、親ゆずりや、独特の天凛の才があればとに角、大半はフラフラ腰で左右している中に、なんとなく決まってしまい、それで結構本人も納得しているのじゃないだろうか」。

柳田国男の民俗学、柳宗悦の民芸、そして向井潤吉の民家。この民家の画家は、描き残した民家は1000軒を超え、油彩による民家作品は2000点にも及ぶとされる。

アサヒグラフ別冊「向井潤吉」を読んだ。1974年に開催された『画業六十年向井潤吉還流展』の図録の巻末には「私は私なりのささやかな反抗と試行錯誤を繰り返して来て、それが決して徒労でなかったことに心づき、1人の平凡な画家として、これもまた一つの道であったということを改めて考えます」と語っている。親交のあった森繁久彌は、絵描きは精神が高邁で、かつ鷹揚だという。中でも向井先生は、菩薩様のような人だと書いている。

「民家と私」という小エッセイには、北は留萌から南は知覧まで歩き民家を描いたこと、そして「未知の農山漁村に、夢と望みをかけてあせらずに遍歴のスケッチを続けていく。なおしばし体力のつづく限り」と書いている。私も訪れたことにある小豆島。倉敷。上ノ山。遠野。、、などの作品を眺めた。

風景は静止していない。風景は移ろっている。風景は無常だ。その風景が現場であった。民家の画家・向井潤吉は現場主義の人であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?