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「名言との対話」5月13日。芹沢銈介「どんどん染物を染めていって、自分というものなどは、品物のかげにかくれてしまうような仕事をしたい」

芹沢 銈介(せりざわ けいすけ、1895年明治28年)5月13日 - 1984年昭和59年)4月5日)は、日本の染色工芸家

静岡県静岡市生まれ。東京美術学校への進学を夢見ていたが、実家の全焼で家運が傾き美術学校への進学はあきらめて東京高等工業(現・東京工大)の図案化に入る。この図案科が入学後2年目に東京美術学校に移管される。芹沢は図案科に入ったことで画家ではなく、図案家、すなわちデザイナーの道を歩むことになる。

「別冊太陽」の「染色の挑 戦芹沢銈介」では、図案家から染色作家への20代、柳宗悦と紅型(びんがた)に導かれた30代、東京移住と沖縄への旅の40代、終戦から復興への50代、津村の暮らしと相手なしの仕事の60代、「もうひとつの創造」への情熱の70代、パリ展と最晩年の日々の80代というように芹沢の生涯を総括している。

芹沢は柳宗悦『工藝の道』を読んで「長年悩みつつありし工藝に関する疑問氷解し、工藝の本道初めて眼前に拓けし思いあり。生涯にかかる感動的の文章に接せしことなし」と感じ、柳を生涯の師と定める。柳は芹沢を「立場をくずさない質」「考えにぐらつかない」人と評した。
東北福祉大学の芹沢銈介の美術館でみた映像では、裸婦像が、次第にデザイン化、単純化されて、最後は縄に変化する図案などには驚かされた。その映像の中で池田満寿夫は「単純化への意思がある」「見たものを即刻デザインする」「自然からデザインする」というように芹沢の特徴を分析していた。

世界が模様の宝庫に見えた染色家は、次のようにいう。

  • 図案という空なものでなく、具体的な「物」に自分を見出したい

  • 長年悩みつつありし工藝に関する疑問氷解し、工藝の本道初めて眼前に拓けし思いあり。生涯にかかる感動的の文章に接せしことなし(柳宗悦「工藝の道」を読んで)

  • どんどん染物を染めていって、自分というものなどは、品物のかげにかくれてしまうような仕事をしたい

  • 電気屋さんの腰にぶら下がっているペンチやねじ回しの列、また街頭に出会う道路工事や塗装など、この道具たちにも皆何か生きていて、美しい文様を感じるのです。

  • 集まり寄るものすべて有難く、すべてよろし。常にふれ合ひて歓ぶなり

芹沢は多作な生活美のデザイナーだった。日常の用いるあらゆる物品に模様を描き続けた。着物、帯地、のれん、壁掛け、卓布、風呂敷などの生活用品。屏風、軸、額絵などの観賞用の作品や寺院の荘厳布。本の装幀、和紙。染絵本や挿絵。扇子、うちわ、カレンダー、絵はがき、蔵書票、マッチのラベル、お品書き、包装紙、のし紙、ポスター、株券、賞状、商標や商品のラベルなどの商業デザイン。建築設計、家具、展示、ステンドグラス、看板、鉄行灯、緞帳のデザイン。素描、水彩画、ガラス絵、板絵などの肉筆画。陶器の絵付け。「いろは」「春夏秋冬」などの文字デザイン。、、、、

生涯の師は6歳年長の柳宗悦である。柳は芹沢を「立場をくずさない質」「考えにぐらつかない」人と評した。また芹沢の仕事を「模様を生み、こなし、活かし切り、また派手でありながらも俗に落ちない色を生み出した」と評している。

2019年にみた日本民芸館「藍染の絞り 片野元彦の仕事」展。では、片野は「わが仕事も先生(芹沢銈介先生)の偉大な山を仰ぎ見て、果てしなく拡がるその裾野に生うる一本の雑草になりとなりたいと念じて今日に至った」と師を語っていた。

70代からは「もうひとつの創造」といった。それは自分で選び、日々を楽しんだ蒐集に情熱を傾けることであった。芹沢は、染織家としてのつくる喜び、蒐集家としてのつかう喜びの両方を知っていて、自宅に人を招くときは、配置するものを変えていたそうだ。創作と生活の一致にいたっている。時代や国境を越えた、そして様々なジャンルにわたった蒐集の日々も感動的な日々だった。染織と同様に、蒐集もまた創造なのである。

芹沢は「どんどん染物を染めていって、自分というものなどは、品物のかげにかくれてしまうような仕事をしたい」という。芸術は自己主張で動物的なものが中心だが、芹沢銈介は逆で植物的だ。対象にのめり込むことで、自分の存在を消していこうとしたのである。

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