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9月25日。沖永壮一「社会の変動が激しい時は、伸びるものはぐんぐん伸びるし、落ちるものはどんどん落ちる」

冲永 荘一(おきなが しょういち、Dr. Shōichi Okinaga、1933年6月29日 - 2008年9月25日)は、日本の学校法人経営者、教育者、医学者。

財団法人帝京商業学校を創設した冲永荘兵衛の長男として1933年東京府荏原区(現・品川区)に生まれる。1958年東京大学医学部卒業後、1963年に東京大学大学院医学系研究科博士課程を修了、医学博士号を取得した。その後1966年に帝京大学を創設し学長・理事長に就任、1981年には同大学総長に就任し、2002年に総長を退任するが、その後は学主(owner)として逝去するまで同大学トップの地位にあった。

51歳の時に刊行した『ひたすらの道 私と帝京の半生記』を読んだ。まだ50代に入ったばかりのときの自伝であるから、帝京グループの創世期の苦労が語られている。180名足らずの中小企業的組織から始まり、4000名までになった創業の物語だ。

高校から大学受験のあたりでは、当時の青年と同じくフジヤマのトビウオ古橋広之進の活躍や、湯川秀樹博士のノーベル物理学賞受賞に感激し励まされている。1963年には医学博士になるのだが、その論文は翌年に日本婦人科学会賞を受賞しているから、医学の道に進んでいたら優れた研究者になっていただろうと推察される。

帝京大学創設時は32歳だった。1966年はベビーブームの波が大学入学年齢にさしかかった時だ。次の目標は医学部設立になった。よくも悪くも慎重と自認する沖永は最後は厳島神社のおみくじの「吉」で決断し、苦労の末に医学部を設置する。医学部設置は学生の質の向上ももたらした。教授陣も充実させている。医学部は安部英教授、経済学部は佐貫利夫教授、降旗節雄教授、星野芳郎教授、法学部は神谷尚男教授、など一流の教授陣を招くことに腐心している。

沖永の処世の原点は「他人にやさしく、自分にきびしく」である。その沖永は、生徒数が減少するときのことを考えて、ブームのピーク時でも長期的なコスト負担となる新規採用をしない。ブームのダウンの時に焦点を当てて、ピーク時は「ワンポイント・リリーフ」で切り抜けている。慎重居士の面目躍如だが、この本の中で初めて明らかにしたのは、資金源である。意外だが、資金は株であった。絶対値に限りなく近いと思われる株を購入し、値上がりや配当金を資金としたと明らかにしている。

帝京は「実学」を標榜している。専門学校で学ぶのは「実技」であり、大学は実学を学ぶところだ。技と学とはまるで違う。これが沖永の主張である。

石橋を何度もたたいてから渡る沖永は、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の「ニュー・ディール」を高く評価している。イデオロギーや夢で国民を釣るのではなく、淡々とそして全力でやったリキミのない点を参考にしていたのである。

社会の変動が激しい時は、伸びるものはぐんぐん伸びるし、落ちるものはどんどん落ちる。その中で中長期の発展を期す戦略を持っていた。その後、10数年の帝京の躍進は沖永壮一の戦略に沿っているようにみえる。また、1973年生まれの「非常に常識的な男である」という二男の佳史が後を継いでいる。この人とは何度か私も会議でご一緒している。多摩大の「現代の志塾」という教育理念に感心してもらったことがある。

沖永壮一は社会の激流の中を、手持ちの資源と将来の目標を見つめながら、慎重な手綱さばきで泳ぐことに成功した人だろう。


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