2月10日。石牟礼道子「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順番に、水銀母液ば飲んでもらおう。、、、上から順々に四二人死んでもらう。奥さんに飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」

石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年3月11日 - 2018年2月10日)は、日本の作家。

熊本県天草郡河浦町(現・天草市)出身。水俣実務学校卒業後、代用教員、主婦を経て1958年谷川雁の「サークル村」に参加し、詩歌を中心に文学活動を開始する。熊本に根をはりつつ世界に開かれた詩人、作家、運動家だった。享年90。

冒頭に掲げたのは昭和43年から始まった水俣病患者互助会と新日本窒素(チッソ)水俣工場との補償交渉でチッソからゼロ回答があったときの、患者たちの吐いた言葉である。石牟道子『苦海浄土 わが水俣病『』にある。石牟礼道子はそれは「もはやそれは、死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである」と記している。因みに鎮魂の文学『苦海浄土』は第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、石牟礼道子は水俣病患者を描いた作品で賞を受けるのに忍びないと受賞を辞退している。1969年の『苦界浄土』から始まって、『神々の村』『天の魚』の三部作シリーズが完成するのは2004年である。2002年には水俣病をテーマに現代文明を批判する新作能『不知火』を発表した。

何もなかった状況に戻って、失われた日常を取り戻すことが、患者や家族たちの本当の願いだ。それがかなわないから補償という次善の策になった。それでも償おうとしないことに当事者も、そして石牟礼も怒りを持つのだ。石牟礼道子の誕生日の3月11日は、奇しくも2011年の東日本大震災の起こった日である。原発の災禍に見舞われた人たちの姿がだぶって見える。原発事故に水俣と同じ構造をみていたのである。

石牟礼道子は小説、エッセイ、伝記、シナリオ、能、狂言、詩、短歌、俳句、、など文芸のあらゆるジャンルに優れた作品を書いたが、晩年に一番親しんだのは世界最短の短詩、俳句であった。以下、石牟礼道子句集『天』と全句集収録の句から。

死におくれ死におくれして彼岸花    祈るべき天とおもえど天の病む    毒死列島身悶えしつつ野辺の花  いかならむ命の色や花狂い  さけがけて魔界の奥のさくらかな  花ふぶき生死のはては知りざりき  彼岸花 棚田の空の炎上す  あめつちの身ぶるいのごとき地震くる  わが道は大河のごとし薄月夜

「わたくしは水俣病がなければ、自分がそこに生まれ育った世界をこれ程ふかぶかとのぞたであろうかと思う」

死去の翌日の2018年2月11日の朝刊を手にすると、日経新聞の「春秋」、東京新聞の「筆洗」、朝日新聞の「天声人語」、毎日新聞の「余録」も、石牟礼道子の死と『苦海浄土』を取り上げていた。石牟礼道子の仕事は尊い。




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