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「名言との対話」11月12日。石川安次郎「ハイカラ」

「名言との対話」11月12日。石川安二郎「ハイカラ」

石川 安次郎 (いしかわ やすじろう、 1872年 9月19日 〈 明治 5年 8月17日 〉- 1925年 〈 大正 14年〉 11月12日 )は、明治・大正期の 日本 の ジャーナリスト 、 代議士

岡山県出身。慶応義塾卒業後の経歴は以下の通り。『庚寅新誌』記者。『信濃日報』主筆。『中央新聞』経済部長。『東京毎日新聞主筆。『報知新聞』記者、主筆。『東京朝日新聞』。『萬朝報主筆1924年には衆議院議員の当選している。

「政界ゴシップの天才」の石川は、新語、造語、奇語の名人だった。その代表が、流行語となり、今日でも時々耳にする「ハイカラ」である。この言葉は、「バンカラ」に対する語で、1898年に石川が西洋かぶれを揶揄する語として新聞で使い始めた語である。

ワイシャツにつける高襟をハイカラーといい、これを身に着けた有力者を人物評欄で「ハイカラ」と呼んだのだ。頑固頑迷の山県などの保守主義者のチョム髷党(ちょんまげ)、ピストル党(髷の形が西洋人を撃つピストルに似ている)に対して、大隈、伊藤、西園寺ら開国派を軽佻浮薄なハイカラと揶揄した。

イカラは、新帰朝をほのめかす、すまし顔、気障、生意気などの印象をあった。あの人はハイカラだとも言い、ハイカラ文士なども登場、そしてハイカラ節、ハイカラどんまであらわれて当時は大流行している。この言葉はしだいに、元の意味から離れて、進歩的、お洒落など肯定的な意味をもってくるようになり、1892年のNHK連続テレビ小説「ハイカラさん」なども登場している。
最近では、大和和紀「はいからさんが通るという人気漫画がある。大正ロマンの時代を「はいから」という視点から描いたものだ。
また、本日、漱石の講演録を聴いていると、「ハイカラ」という言葉が出てきて驚いた。この場合は、本来の意味で使っていた。

私は子どもの頃、小学生あたりだったか、母親からオシャレな服を着せられたときに、ハイカラさんといわれた記憶がある。

石川安次郎は、テンポが良く、切れ味の鋭い人物評で人気があったが、今日まで命脈を保っているのは、この「ハイカラ」だけである。後に石川は「惟唯一ハイカラといふ一語だけが、馬鹿に大流行を来した」とし、「一の重要なる日本語となッて仕舞ふた」と述懐している。

一つの日本語をつくったということは、新しい概念を創造したということである。時代の空気を一言で言いあらわし、それが人口に膾炙し、大流行となって、後々まで使われるとはジャーナリストとして名誉なことだ。

文明開化の明治後期、そして大正デモクラシーの時代をふり返ると、それは「ハイカラ」な時代であったという言い方がふさわしい感じもする。いずれにしても、本人は思いがけなかっただろが、この一語で石川安次郎という名前は歴史に残ったのである。人間の織りなす歴史は実に面白い。



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