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「名言との対話」4月13日。木村秀政「仲間と一緒になって、夢中になって取り組んで、さんざん苦労したものが報われる。その感動をいろんな人に味わってもらいたい」

木村 秀政(きむら ひでまさ、1904年〈明治37年〉4月13日 - 1986年〈昭和61年〉10月10日)は、日本の航空機設計者、航空機研究者。、航空工学教育者。

北海道生まれ。南部藩の代官の家柄。一高を経て、1924年東京帝国大学工学部航空学科へ進学。この時、航空学科へ入学した10名の中には三菱重工業九試単座戦闘機(九六艦戦)や十二試艦上戦闘機零戦)の設計主務者となる堀越二郎や、川崎航空機の土井武夫がいた。木村は大学院に進む。

1938年、東大の木村が設計した航空研の飛行機は、木更津、銚子、太田、平塚を結ぶ関東平野の一周400キロの周回コースを三日間飛び続けた。29周で1万1651キロを飛んだ。6年前にフランスのブレリオ・ザバタが作った記録を破った長距離飛行の世界記録だった。

1940年は皇紀2600年にあたることから、東京・ニューヨーク間の無着陸の親善飛行を目的とするA-26の設計主務者となる。Aはスポンサーの朝日新聞のA、26は皇紀2600だ。しかし日本の真珠湾攻撃でこの企画は頓挫する。1941年、東京帝国大学助教授を兼任。

1945年に敗戦。東京帝国大学教授に就任するが、GHQの意向で、航空工学科が廃止され失職する。1947年、日大工学部教授に着任。 1953、日本航空学会会長に就任。

1952年にサンフランシスコ講和条約で独立を果たすと、国産旅客機生産の機運が高まり、木村や堀越たちが集められ、双発のプロペラ機YS-11の開発が始まった。そして1962年、戦後初の国産旅客機として初飛行。試作機2機を含めて合わせて182機が製造された。東京オリンピックの聖火を運んだことで、「オリンピア」という愛称をつけられた期待の飛行機だった。
プロペラ機からジェット機への過渡期の7年間の空白をとり戻そうとしたYS-11の製造を通して、木村は多くの若手技術者を育て、戦前に発展した日本の航空技術の伝統を次世代に引き継ぐ架け橋となった。

日大時代の1961年11月に初飛行ニュースを聞いた人力飛行機開発を学生たちとともに計画する。1963年から所属する機械工学科航空専修コースの卒業研究テーマとして研究開発に着手し、リネット1世号として日本初の飛行を実現させた。

木村秀政は長距離飛行世界記録、YS11の開発、人力飛行機の開発などの功績があった。NHK「人・物・録」の映像では、「仲間と一緒になって、夢中になって取り組んで、さんざん苦労したものが報われる。その感動をいろんな人に味わってもらいたい」と語っている。こあたりのことはたなかてつおの漫画『挑戦者』の中でも、「長距離飛行世界記録に挑戦した爽やか航空人・木村秀政」として描かれている。

私は1973年に日本航空に入社しているが、名機YS-11のこと、航空機の大御所・木村先生のことはよく聞く機会があったが、本社で仕事を頃には先生は引退されていて、接触はなかった。今回、その人生を追う中で、国運を担う技術者チームの努力と成功と感動の物語を味わうことができたことは幸運だった。


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