石牟礼道子「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。、、、、上から順々に四二人死んでもらう。奥さんに飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」

石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年3月11日 - )は、日本の作家。熊本県天草郡河浦町(現・天草市)出身。水俣実務学校卒業後、代用教員、主婦を経て1958年谷川雁の「サークル村」に参加、詩歌を中心に文学活動を開始した。73年、「アジアのノーベル賞」と言われるフィリピンのマグサイサイ賞を受賞。93年、小説「十六夜(いざよい)橋」で紫式部文学賞。2003年、詩集「はにかみの国」で芸術選奨文部科学大臣賞。

「私にとって田中正造は“思想上の父”です。」「100年の歳月を超えて、我々は正造の魂を受け継ぎ、生きていかなければならないのです。

冒頭に掲げたのは昭和43年から始まった水俣病患者互助会と新日本窒素(チッソ)水俣工場との補償交渉でチッソからゼロ回答があったときの、患者たちの吐いた言葉である。石牟道子「苦海浄土 わが水俣病」にある。石牟礼道子はそれは「もはやそれは、死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである」と記している。因みに鎮魂の文学「苦海浄土」は第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、石牟礼道子は受賞を辞退している。

何もなかった状況に戻って、失われた日常を取り戻すことが、患者や家族たちの本当の願いだ。それがかなわないから補償という次善の策になった。それでも償おうとしないことに当事者も、そして石牟礼も怒りを持つのだ。石牟礼の生まれた3月11日は、奇しくも東日本大震災の起こった日である。原発の災禍に見舞われた人たちの姿がだぶって見える。石牟礼道子の仕事は尊い。

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