「名言との対話」8月31日。エルヴィン・フォン・ベルツ「学問を産まんと欲すればすべからく先ず学問の精神を養わねばならぬ」
エルヴィン・フォン・ベルツ(独: Erwin von Bälz、1849年1月13日 - 1913年8月31日)は、ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。
2017年に草津温泉を訪ねたとき、ベルツ記念館を訪問する機会があった。ベルツは草津温泉の発見者であり、「日本近代医学の父」と呼ばれている医学者である。
妻は日本婦人の花で24歳の年齢差。 1867年(明治9年)に27歳で来日、1905年(明治」38年)に帰国するまで29年間滞日。ベルツは、東京帝国大学名誉教授。勲一等旭日大綬章。伊藤 博文ら明治の元勲と親交があった。
日本を西欧に紹介した医師では、ケンペル(1651ー1716)、シーボルト(1796ー1866)、そしてベルツ1849ー1937)がいる。いずれもドイツ人である。
ケンペルは1651年にオランダ東インド会社付きの医師として長崎出島の商館に着任。江戸参府に同行し、将軍綱吉の所望で自作の歌と踊りを披露している。『日本の歴史及び紀事」を著し日本の風土や人物を紹介した。
シーボルトは1823年にオランダ東インド会社の外科少佐として長崎出島に着任。鳴滝塾を開設した。6年間の滞在中の集めた地図などが露見して関係者が罪に問われた。シーボルト事件である。
明治新政府は当時最も優れていたドイツ医学の導入をはかり、ドイツのライオプツイヒ大学から27歳のベルツを招き、東京医学校内科正教授とした。ベルツは以後29年間の日本での生活を送る。ベルツは学校の夏季休暇で国内旅行をし、48里・5日の距離の1200mの高地にある上州の草津温泉を発見する。草津ではライ病、梅毒、淋病などを多く湯治していた。草津温泉は、強酸性の温泉で、非常に高温であった。ベルツは草津を世界三大温泉と讃えた。ヒビやアカギレの薬「ベルツ水」をつくったり、胃腸病に特効のある「白根水」も研究している。
ベルツは1905年の帰国に際して天皇皇后両陛下から最高勲等の「勲一等旭日大綬章」を授与された。1881年に荒井はつと実質的に結婚、1904年に正式に入籍している。
1907年には皇太子の病気診断のため親交のあった伊藤博文候からの書状を受けて再来日。皇太子嘉仁親王の欧州歴訪の中止を勧告している。副島種臣子息、井上外務卿、大隈重信参議、板垣退助自由党総理などを往診。松田東京府知事、大山巌陸軍卿夫人(捨松)の死去にも立ち会っている。
(以上は、ベルツ記念館で入手した「ベルツ博士と草津」より。
お雇い外国人という視点からみると、古代から鑑真、無学祖元、ウイリアム・アダムス、ケンペル、シーボルト、そして幕末から近代にかけてのフルベッキ、フェノロサ、モース、ボアソナードらから始まる人々が思い浮かぶ。この系譜を東大の前身の南校で教鞭をとったグリフィスという人物が研究し、書籍にまとめている。それを翻訳解説した『お雇い外国人 明治日本の脇役たち』(梅渓昇)を手にした。
お雇い外国人が最も多い1874年(明治7年)では、工部省228人がダントツで、政府全体では503人。1885年には141人と大幅に減っている。
給与表をみると、岩倉具視右大臣(一等)が月給600円、大久保利通参議(一等)が500円。浜尾新(開成学校。八等)は70円。それに対し「生きた機械」としてのお雇い外国人は、フルベッキ(南校教頭)が800円、フェノロサ(東大教師)300円、中には造幣首長キンドルは1045円と突出していた。
ベルツは「ベルツ日記」を残している。この日記は冷静に日本をみている稀有の観察だった。ベルツは西欧の制度などを賞賛するだけでなく、日本自身の古代文化と伝統を尊重することが大事だとの見解だった。
1901年にベルツ来朝25周年の祝賀会が開かれた時の演説では次のようなことを述べている。
日本人は、学問を一つの機械のように考えているが、西欧の学界は一つの有機体である。日本人はお雇い外国人を学問の果実だけの切り売り商人と見ているが、自分らはまず種をまこうとしているのだ。公的な接触だけでなく。私的にも交際を深くし学問の精神を養ってほしい。
明治政府、日本人は、「和魂洋才」を標榜し、和魂は絶対に譲らなかったのである。それをベルツは指摘しているのだが、古代からずっと日本はこのやり方で国づくりをするの国是であったのだ。
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