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7月28日。水島廣雄「小を大に、大をトップに育てることこそ人生の快事である」

水島 廣雄(みずしま ひろお、1912年4月15日 - 2014年7月28日)は、日本の実業家、民法学者。東洋大学名誉教授、法学博士。

1936年に中央大学法学部を卒業し日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行した水島廣雄は、サラリーマン生活を送りながら「不動担保の研究」で法学博士号を取得。東洋大学法学部教授を兼務し、担保法の権威だった。

1958年に副社長として入社した当時のそごうは、大阪、神戸、東京の3店しかない中堅百貨店にすぎなかった。社長就任時、売上高数百億円の弱小デパートだった。約30年後の1991年、老舗百貨店を抜いてグループ売上高を1兆2000億円まで伸ばして、「日本一の百貨店」の栄冠をつかみ、デパート王と呼ばれるまでになった。思い切った多店舗展開で、都心ではなく都下や千葉市、横浜市など東京周辺部駅前一等地に地域一番店を出店、一時は国内外合わせ40店舗を誇った。バブル崩壊後、過剰投資が裏目に出て、過去最大の1兆8700億円の負債を抱えて、民事再生法の適用を申請し、破綻に至った。

「負ければ賊軍。でもね、横浜などにそごうは残せたね」。 30代の頃、横浜そごうがオープンして家族と一緒に「世界の人形時計~ <からくり時計」を楽しんだ。確かに、経営破綻はあっても、「法人は死せず」だ。

大都市から一定の距離を置いて虹のように取り囲んで出店するレインボー戦略を、国道16号線を対象に具体化している。高度成長で増加したサラリーマン層を吸収した公団、団地、マンションが林立する地域である。横浜、多摩、柏と、16号線上にそごうがあった。川口、大宮、千葉、茂原のそごうもその戦略の一貫だったのだろう。多摩そごうも、鈴木俊一・元東京都知事が「人口30万人になります」と押したが、実際には15万人にとどまった。多摩地域では多摩センター・南大沢・橋本・八王子と、半径10km程度の範囲に4店舗を出店する計画があり、橋本を除き、実際に出店している。

「破綻の責任はある。しかし決して放漫経営ではなかった」と本人が言うように、行政に頼まれ、銀行に後押しされて出店した店も多かったのである。

水島廣雄は、小を大にし、その大をトップに育てた怪物である。「メーカーの時代は終わった」と言った中内功のダイエー、「安く仕入れたら安く売れ」と言った和田良平の八百半、「愚直さが相手の心を打つのです」と言った堤清二の西友など、成功と失敗を経験した彼らも水島と同じく人生の快事を成し遂げた人たちである。

水島廣雄は、さらに102歳での大往生という快事をも成し遂げている。「年配者は貴重な体験を明日に活かせ、若者は夢をもて」と励ました続けた人柄を慕う人も多く、100歳のお祝いの会には250人が出席している。水島は波瀾万丈のを生き切った百寿者(センテナリアン)である。


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