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6月21日。近藤芳美「眉上げて行く如き死に友ら過ぎその悲しみを生きて吾が追う」

近藤 芳美(こんどう よしみ、男性、1913年5月5日 - 2006年6月21日)は、日本の歌人である。

旧制広島高校在学中に、広島市近郊で療養中の歌人中村憲吉を訪ね、「アララギ」に入会、本格的に作歌を始めた。以後、中村及び土屋文明に師事した。東京工業大学卒業後、清水建設に入社。設計技師として勤務する傍ら、アララギ同人としての活動を継続した。1961年、工学博士。1973年から1984年まで神奈川大学工学部建築学科教授をつとめる。

1951年、アララギ系短歌会「未来短歌会」を結成し歌誌「未来」を主宰。現代歌人協会の設立に尽力し、1977年から15年にわたり理事長。素材主義を標榜し、生活の実感に基づいたリアリズムの短歌で、93年の生涯で、24冊の歌集を刊行した。1955年から2005年まで50年にわたり「朝日歌壇」の選者であった。中国新聞、信濃毎日新聞の選者。文化功労者。迢空賞。詩歌文学館賞。現代短歌大賞。斎藤茂吉短歌文学賞。

1986年刊行の近藤芳美『歌い来しかた』(岩波新書)で1945年から1960年までの15年間に詠んだ歌とその背景を知ることができる。敗戦から講和条約、朝鮮戦争、砂川闘争、スターリン批判、スプートニク人工衛星、安保闘争までの戦後の歴史の中に生きた近藤の内面史である。「つつましき保身をいつか性として永き平和の民となるべし」「傍観を良心として生きし日々青春と呼ぶときもなかりき」「身をかはし身をかはしつつ生き行くに言葉は痣の如く残らむ」「行為なきもののみ錯誤なしと言う激して思う忘れられし死ら」「犠牲者の一人の少女を伝え伝え腕くみ涙ぐみ夜半に湧く歌」。

NHK人物録で近藤芳美の映像をみて言葉を聞いた。思いの深い顔、優しい眼、哀しさをまとった表情の人だ。苦しんだ果てに自分自身に戦争の理由をつけながら死んでいった友を歌った歌が心に沁みる。「眉上げて行く如き死に友ら過ぎその悲しみを生きて吾が追う」「果てしなきかなたにむかいて手旗うつ万葉集を打ちやまぬかも」

「この前の戦争、あれは何であったか。あの中で人間は何であったか。絶えず問い続けていかなければならないと思う」という近藤は。戦争という極限状態の中で、民族の伝統詩である短歌をつくることを思い出す。それが短歌への信頼となり、エネルギーとなった。

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