見出し画像

「名言との対話」1月20日。恩地日出夫「市原悦子さんへ あなたは『どうせ私は不美人』と笑った」

恩地 日出夫(おんち ひでお、1933年1月23日 - 2022年1月20日)は、日本映画・テレビ監督。享年88。

東京出身。慶應義塾大学経済学部卒業後、東宝に入社。助監督を経て27歳の若さで監督になり、1961年に最年少監督として『若き狼』を発表。1963年、『素晴らしい悪女』、1964年には問題作『女体』(団玲子主演)を公開。

1967年『伊豆の踊子』、1968年『めぐりあい』(酒井和歌子の初主演作品などがヒットし、「青春映画の巨匠」と呼ばれた。以後、『生きてみたいもう一度・新宿バス放火事件』、『四万十川』、『蕨野行』(芸術選奨文部大臣賞)などを発表する。

1970年代からテレビに向かう。1971年から『遠くへ行きたい』、1974年から始まった『傷だらけの天使』を担当した。1979年には『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』(芸術選奨優秀賞)を発表。学生時代に新聞部に所属し、ジャーナリストを志望していたこともあり、社会派でもあった。

週刊朝日に「市原悦子さんへ あなたは『どうせ私は不美人』と笑った」という記事が載っている。市原が2019年1月に亡くなったときの青山葬儀場の弔辞で語った言葉だ。新人の役者を使うときには必ず相手役は市原だった。泉谷しげるが「吉展ちゃん事件」で初の俳優をやっとときも、「蕨野行」で素人を主役にしたときも、市原が相手役だった。演技が上手で心配りができる役者だたからだ。東宝に入社した頃は原節子など美人女優だらけの東宝撮影所に食傷気味だったこともあり、市原悦子に興味をもった。その話を後になって本人にすると、「どうせ私は不美人ですよ」と笑ったという。

何か、ほのぼのとした恩地の人柄を感じるエピソードだ。3つほど年下の市原悦子も恩地監督の作品に多く起用されたことで、『家政婦は見た』などの達者な女優となって私たちを楽しませてくれた。これも恩地日出夫の功徳かもしれない。恩地は市原没後3年の2022年に亡くなった。二人は同時代を生きたのだ。この弔辞の最後は「こうやって、明るく笑ってる写真を見てると、もう二度と一緒に仕事はできないのかなぁと思いますが、これもやっぱりお互い人生だと思います。長い間、ありがとうございました。」だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?