「名言との対話」 3月2日。相馬国光「これは私だ」
相馬 黒光(そうま こっこう、1876年9月12日 - 1955年3月2日)は、夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家。
仙台生まれ。12歳でキリスト教の洗礼を受ける。裁縫学校、宮城女学校、横浜フェリス英和女学校と転校を繰り返し、明治女学校で学び、島崎藤村、国木田独歩の影響を受けて文学に目覚める。国光という珍しいペンネームは、溢れる才気を少し黒で隠しなさいという意味で女学校の恩師からもらったものだ。
卒業後、1897年に長野県のキリスト教徒、相馬愛蔵と結婚し、安曇野に住むが、村風にあわず、夫とともに東京に出る。26歳と21歳だった。東京でパン屋「中村屋」を開業。1909年、新宿を本店とする。同郷の荻原守衛を中心に芸術家・文化人が集い、「中村屋サロン」と呼ばれる。1910年、荻原が中村屋の敷地内にアトリエを建築。柳宗悦も一時アトリエに住む。1911年、荻原のアトリエを中村屋に移築し、「碌山館」と命名した。
中村屋はゆっくり成長していった。愛蔵は世の中の仕事というものには、改善できる部分が必ずあるという考えで、一つずつ改良を重ねていく。私の好物でもあったクリーム本は中村屋の発明である。
中村屋サロンに集った人々のなかでも彫刻家の荻原守衛・碌山は二人にとって特別な人だった。特にアンビシャス・ガール黒光は弟のように接している。アメリカ、ヨーロッパで7年間の彫刻の修行をし、ロダンの弟子となった守衛は、亡くなるまでこの夫妻とともにあった。守衛の師匠はロダンであり、ロダンの師匠はミケランジェロである。
インド独立闘争の英雄、チャンドラ・ボース(1897年1月23日 - 1945年8月18)を官憲からかくまったのも、この中村屋である。インド人の革命運動家は、日本の大アジア主義者を頼って日本にきた。遠山満、犬養毅らと交流した。日英同盟を結んでいた日本は国外追放命令を出すが、1915年12月1日から4か月、中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻が「アトリエ」にかくまった。ボースは食事を運んでいた愛蔵・黒光の娘と結婚している。ボースは二人を「トウサン」「カアサン」と呼んだ。
69歳時点で愛蔵は「中村屋の商売は人真似ではない。自己の独創をもって歩いてきている」と振り返っている。従業員の待遇や、働く環境を考えるこのとが、経営を安定させる道であり、商売を成功させる秘訣だ。経営の合理性の問題として語った。時代を先取りした珍しい経営者だった。
2019年7月22日に 開高健記念館の見学会の後、新宿中村屋で開高健が好んだカレーを食べながら歓談したことがある。銀座木村屋のアンパンと新宿中村屋のクリームパンの相互不可侵の話などを中村屋の社長から聞いて面白かった。
2014年に新しい新宿中村屋ビルが完成した。その真ん中の3階に新宿中村屋サロン美術館が開館した。2019年11月25日に「新宿中村屋サロン美術館」を訪問した。ここで購入した石川拓治「新宿井ベル・エポック:芸術と食を生んだ中村屋サロン」を読むと、この二人の軌跡がよくわかる。
2019年12月4日に訪問した 山梨県春日居町の小川正子記念館ではハンセン病に尽くした女性の名が挙げてあった。吉岡弥生、神谷美恵子らと並んで小川間正子を支えた人々として相馬黒光の名があった。晩年の正子を勇気づけ、戦時中にバターや砂糖を贈っている。
黒光に愛を感じていた夭折の彫刻家・荻原守衛の代表作のひとつに「女」がある。何かに捕らわれてるかのように、後ろで両手が結ばれ、そしてひざまずきながらも立ち上がろうとして、顏を天に向けている作品である。この「女」をみたとき、黒光は「これは私だ」と叫んだという。
「波も風もないことだけで幸せとはいえないと思うんですよ。波も風もないのは、幸福でもなければ、不幸でもない。ただ何もなかっただけの話ですよ」という黒光の生涯は、束縛から逃れようとした波乱に富んだものだった。それは「才気」「野心」あふれる自らの性格がまき起こしたものであり、本人が望むものだったものだろう。石川拓治「新宿ベル・エポック」の表紙は、荻原守衛の「女」だ。まさに、この像は黒光そのものである。
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