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「名言との対話」11月23日。久米正雄「微苦笑」

久米 正雄(くめ まさお、1891年明治24年)11月23日 - 1952年昭和27年)3月1日)は、日本小説家劇作家俳人

一高時代から菊池寛(3つ上)と芥川龍ノ介と親しかった。この3人の師匠は夏目漱石であった。「牛のように図図しく進んで行くのが大事です。文壇にもっと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思ひます。それから無闇にカタカナに平伏するくせをやめさせてやりたいと思います」とある。 これは大正五=一九一六=年八月二十四日、芥川龍之介久米正雄(25歳)宛書簡にある漱石の言葉である。久米は41歳、石橋湛山の後を継いで鎌倉市議にトップ当選。46歳、東京日日新聞学芸部長。日本文学報国会事務局長。54歳、鎌倉文庫社長。鎌倉ペンクラブ初代会長。桜菊書院『小説と読物』を舞台に、漱石の長女筆子の夫となった恋敵・松岡譲と夏目漱石賞を創設したが、桜菊書院の倒産でこの賞は1回で終わっている。

福島県郡山市の文学の森にある久米正雄記念館は、鎌倉から移設した和洋折衷の74坪という大きな邸宅だ。記念館の近くにある久米の銅像は愉快そうに笑っている顔だった。銅像が呵呵大笑しているのは珍しい。

ゴルフ、スキー、社交ダンス、将棋、花札、マージャン、俳句、絵など趣味は極めて多く、親友の菊池寛の後を継いで日本麻雀連盟の会長もつとめっていた。酒席での得意芸の歌は、酋長の娘、船頭小唄などだった。ほうじ茶でウイスキーを割った番茶ウイスキーを発明したり、愉快な人だったらしい。久米が入ると座が楽しくなるという人柄だ。

久米正雄には友人が極めて多い。里見頓、大仏次郎今日出海佐藤春夫広津和郎、、、。久米の長男昭二は昭和2年生まれだが、同年生まれの野田一夫先生の父上はゼロ戦の技術者、私の母の父は旧制中学校の校長だったというから、その時代の空気がなんとなく見える気がする。

芥川は「その輝かしい微苦笑には、本来の素質に鍛錬を加えた、大いなる才人の強気しか見えない。更に又杯盤狼藉の間に、従容迫らない態度などは何とはなしに心憎いものがある。いつも人生を薔薇色の光りに仄めかそうとする浪曼主義(ロマンチシズム)。、、」と久米の人柄を語っている。また「久米正雄氏の事」というエッセイでは、「久米は官能の鋭敏な田舎者」であるが、「久米の田舎者の中には、 道楽者 の素質が多分にあるとでも云って置きましょう」と語っている。

久米正雄 名作全集: 日本文学作品全集(電子版) (久米正雄文学研究会)を手にして、いくつかの短編を読んでみた。「良友悪友」というエッセイでは、「俺はかうして彼らと肩を並べるために、伸び上り〳〵警句めいた事を云つてゐるが、そんな 真似 をして何の役に立つのだ」という正直な反省も述べている。「受験生の手記」という短編小説では、一高受験で2年連続して落ちた主人公のゆれる心情を、1歳違いの弟との微妙な関係を軸に書いている。

「微苦笑」は久米自身の造語であった。小谷野敦の書いた久米の伝記『久米正雄伝--微苦笑の人』では、この微笑とも苦笑ともつかない、かすかな苦笑いを浮かべながら日々を過ごした人とその生涯を総括している。

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