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「名言との対話」3月21日。宮城まり子「私ほどこの仕事に不適当なものはありません。けれど、なんとか私がやりとおしてこれたのは愛です」

宮城 まり子(みやぎ まりこ、1927年3月21日 - 2020年3月21日)は、歌手女優慈善活動家福祉事業家)、映画監督。享年93。

東京出身。人気歌手、人気女優でありながら、その絶頂期に芸能活動から離れ、1968年に日本初の民間社会福祉施設である社会福祉法人ねむの木福祉会を設立し、静岡県掛川市学校法人ねむの木学園をつくった。ねむの木養護学校校長、特別支援学校ねむの木の校長などを歴任した。

私は2008年に宮城まり子の「ねむの木こども美術館」を訪問している。吉行淳之介文学館から新緑を見ながらそして深い渓谷の水音を聞きながら少し道を登っていくと、NHKテレビの番組で見た記憶のある独特の建物が現れた。宮城まり子が心血を注いだ「ねむの木こども美術館」である。ユニークな建築で知られる藤森照信さんの設計。白い横長の建物だが、土地自他に傾斜があり、入り口のある部分は2階建てで、多くの作品を展示している部分は1階建てだ。その2階建ての屋根はキノコの形をしており茶色の帽子をかぶっているようでユーモラスだ。
2階にはエレベータで上がる。「私ほどこの仕事に不適当なものはありません。けれど、なんとか私がやりとおしてこれたのは愛です」とまり子が出した手紙の一節が掲示してある。恋人の吉行淳之介文学館でも感じたことだが、エニアグラムの性格タイプ2であることは間違いない。このタイプは人を助けることで自己の存在を確認できるから、献身や愛に生きる人が多くなる。
最初の真白なまばゆい空間は教会を連想させる。宮城まり子自身のガラス素材の作品がある。「モナコの海」「きづついた夜」「海辺の街」「春」「日本海の夕日」「こどもの情景」、、、。ここには、ほんめとしみつ君とほんめつとむ君の兄弟の絵が並んでいる。「おかあさん」の絵は、赤と黒のみで描いた顔で、これは宮城まり子がモデルだろう。
メインの大きな空間には子どもたちの絵がたくさん展示されている。やましたゆみこさんの作品はとても好きになった。「お花畑のこどもたち」「飛行機雲」「つしんぼとり」「秋の木の黄」「れんげ草とあたしとおかあさん」「春が来ました お花もつくしんぼもおはよう」「ねむの木国ねむの木県ねむの木村ねむの木」、、。大きなキャンバスに細かくデザインされた絵は長い時間の存在と豊かな表現力を感じさせる。むらまつきよみさんの作品もいい。木の香りがいい素敵な美術館である。
出口近くの空間に2007年4月15日朝4時と日付と時間の入った宮城まり子の言葉がある。美術館の開館の日の朝の言葉である。

「わたしたちは、造形の神のたまわれた試練を恩恵とうけとり、あらゆる困難にたえ楽しく強くそしてたよることなく、やさしく感謝しものごとに対処し根気よく自分の造形に挑戦した 心おどるでしょう これがわたしたちのやったこと まり子」。
「ねえ、貴方 わたし、よくまあつづいていると思います。子どもたちの才能は無限なのですね まり子」。
この美術館の白い外壁の下の方には、子どもたちが描いた木や花の絵が描かれていてとてもいい。
出口から広い庭に出て歩くと、鳥の声が間断なく聞こえてくる。「ホーホケキョー」とウグイスは長く長く鳴き続けていておかしくなるほどだった。

美術館を後にして道を下ると社会福祉法人ねむの木学園に着く。ねむの木学園は肢体不自由児を対象とした施設で宮城まり子が1968年以来運営してきた肢体不自由児療護施設である。山あいにある広い敷地の中に薄赤の屋根をかぶったかわいい建物がいくつか並んでいる。白い小手鞠(こでまり)の花がきれいだ。学園にいく朱塗りの橋の名前も、こでまり橋だった。学園の外を歩きながら中をのぞくと。子どもたちがダンスをしている姿が垣間見えた。ねむの木は白い花の先がピンクに染まっている可憐な花。この学園には1時間に1本のバス便がある。
「愛の風景」というねむの木学園を題材にした写真集をみると、子どもたちに絵を教えたり、ミュージカルを一緒に踊ったり、合唱したり、ポピーの中をみんなで歩いたりする、まり子の姿がある。一生懸命に頑張っているが、80歳を迎え老いたまり子にこの学園の経営という重荷がかかっていると思うとかわいそうな気もする。

吉行淳之介記念館は広い文学館だが、天井は各部屋ごとにそれぞれ異なった工夫が凝らされている。三角形に張り出した空間の先の小さな場所からは庭の緑が心を和ませる。

恋人まり子への手紙が掲示してあった。「帰ってきたら、君のヒコーキの中の手紙が着いていて、胸がきゅんとなった。好きだよ」「君と離れていると、気持ちが荒んで困ってしまっている」、、。
吉行淳之介の作品は今まで読んだことはなかったので、『鞄の中身』を買った。最初の短編の「手品師」を読んだ。もろくはかない青春の一こまを描いた叙情豊かな作品だった。
建物といい、遺品の配置といい、能を催した庭の見事さといい、見事である。ハードだけでなく、ソフトに優れていると感心した。宮城まり子の配慮が隅々にまで行き届いている上質の空間であり、宮城まり子の愛が吉行を包み込んでいる。吉行淳之介を記念した文学館であるが、宮城まり子の記念館であるとの印象も濃い。

それから3年後の2011年に、宮城まり子の銀行口座から、現金を不正に引き出したとして、警視庁は容疑者を詐欺の疑いで逮捕したというニュースが流れた。

「毒消しゃいらんかね」「ガード下の靴みがき」「屑屋の歌」「納豆うりの歌」「ジャワの焼鳥売り」「陽気な水兵さん」「まり太郎の歌」「ドレミの歌」などを歌った紅白歌合戦には1954年から8回出演するなどの大歌手だった。どの歌も戦後の世相を反映しており、人々は励まされた。そのまり子は、30代で困難な社会福祉の道を選び、その道を歩み続けた。そしてテレビ、ラジオ、映画、著作などで、身体や精神に障害を持つ子どもたちへの支援を訴え続けた崇高な生涯を送った。3月21日は、宮城まり子の誕生日であり、死亡日である。同年同日だった。


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