「名言との対話」9月8日。水上勉「西方浄土などはなくて、永遠にここは地獄である。それなら、地獄の泥を吸って滋養となし、私は長生きしたい」
水上 勉(みずかみ つとむ、みなかみ つとむ、1919年(大正8年)3月8日 - 2004年(平成16年)9月8日)は、福井県出身の小説家。享年85。
水上勉『冬日の道・わが六道の闇夜』を読了した。ある編集者が「文壇へわらじ履きで登場してきた観がある」といったそうだ。中学をやっと出た後、多くの職業遍歴を重ねている。日本農林新聞、報知新聞、学芸社、三笠書房、日本電気協会、小学校助教、虹書房を起業、文潮社、日本繊維新聞、東京服飾新聞、洋服行商人。、、、
自伝の後半の「わが六道の闇夜」は、53歳の時点で「私という人間が、どういう育ち方をして、今日のようなひねくれた心の持ち主になったのか、そこらあたりの事情を、出来る限り書いてみい」と思い立って幼少からの体験をつづっている。
20数年間電燈がなかったほどの貧乏。禅寺へ小僧として出家。食べ物の差別と兄弟子たちからの隠微な集団的いじめ。脱走。禅宗坊主の虚偽世界。京都府庁の雇として満蒙開拓少年義勇軍の募集と自らの応募。奉天で中国人虐待の生活。肺病となって帰国。多くの女たちとのこと。壮絶な前半生の記録だ。
1959年に書いた『霧と影』が売れて、一躍流行作家となる。『不知火海沿岸』『海の牙』を経て、中山義秀から「お前、人間を書け。人間を書くしかないぞ」と諭されて、『雁の寺』を書き、42歳で直木賞を受賞する。
その後、亡くなるまで社会派推理小説や純文学など膨大な量の作品を書き続ける。『五番町夕霧桜』、『飢餓海峡』、『一休』、『良寛』などが代表作だ。菊池寛賞、吉川英治文学賞、谷崎潤一郎賞、などの受賞を経て、1998年には文化功労者となった。没日は直木賞受賞作『雁の寺』に因んで「帰雁忌」と呼ばれる。
柴田錬三郎は「40数年間に36回も職業を変えた経験を持っているから話題も豊富だし、例の「水上節」で、会場をしいんとさせ、多くの中年女性にハンカチをとり出させたりする」と講演の名手としての水上を語っている。
水上勉と私の縁をふり返ってみる。
2007年に山形県天童市の「斉藤真一 心の美術館」を訪ねた。日本酒の「出出羽桜」がつくった出羽桜美術館分館である。ここで、瞽女を描いた斎藤真一に小説の挿絵を描いてもらっていた水上勉は「父は虚無僧さんだったという。氏もまた漂泊の者の血を持ち、私と同じような魂の原風景をもてあます人か、となつかしさをおぼえた」と記していた。
2007年の日経新聞のアート探求面に「奇縁まだら」という連載があった。画は横尾忠則。瀬戸内寂聴が書いていていて、松本清張、今東光、遠藤周作などの人たちとの交流を描いており、なかなか面白い。作家たちの人間味に興味が湧く。11月10日の45回目は水上勉の話だった。著名で男っぷりがよかったから女優たちにもてたという話題のあと、「若州一滴文庫」について触れている。「若州一滴文庫」は水上が故郷の若狭に私財を投じて建てた文庫で、故郷の田園のど真ん中に広い敷地を買い取り、自分の集めた本や資料、自著や生原稿のすべてを収めている。それをふるさとの子どもたちに「本を読め」という思いをこめて贈った。いわば私家版の水上勉記念館だ。
2014年に訪問した世田谷文学館では「水上勉のハローワーク 働くことと生きること」展をやっていた。このテーマは不思議な感じがしたが、水上の人生の遍歴をみると、その資格はある。
仕事から教えられる。仕事が人を磨いてくれる。
職業というものはそれにたずさわる側の人の側で、ずいぶんちがうものであり、いいかえれば天職にもなるし、ならぬこともある。
生き死にについて対立的に考えなくなり、ただ今、ここにあることが生命の全体だ、という考え方が深まってきた。
並んでいる資料を眺めていて気がついたのだが、就職のための履歴書には立命館大学を卒業したことになっていた。実際は入学したもののすぐに退学しているから、学歴詐称だとおかしくなった。
2015年に岡山県笠岡市の小野竹喬美術館を訪ねた。この時に手に入れた『素顔の「竹喬」さん』(小野常正。山陽新聞社)を読むと、向かいの等持院で修行中の小僧時代の水上勉が正月に遊びに招いていたとあった。その水上は「等持院を憶うことは、小野芸術への参入だといえる」と語っている。水上が毎日新聞に連載した『冬の光景』の題字は画家・小野竹喬の絵であった。
・「食べながら生きている以上、たくさんの“なにか”の“いのち”が、私たちの中に生まれ変わっています。結局、お互いに 生まれ変わり合い、大きな一つの命を生きている」
・「心の田んぼ──「心田」を耕すことを人は忘れてはいけない」
水上勉がたどり着いたのは、「西方浄土などはなくて、永遠にここは地獄である。それなら、地獄の泥を吸って滋養となし、私は長生きしたい」という心境である。生きることと死ぬことを対立的に考えず、今、ここにあることが生命の全体だとも語っている。壮絶な人生を生きたこの苦労人は、地獄であるこの世を「ただひたすら生きよ」と教えてくれる。