「名言との対話」10月12日。木下尚江「人は実に事業の糸によってのみ、自己を永く世界に織り込むことが出来る」
木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2年9月8日)- 1937年(昭和12年)11月5日)は、日本の社会運動家、作家。男性。
長野県松本市出身。松本中学の万国史の授業で、英国王を倒したピューリタン革命の中心人物・クロムウェルのことを知り、「我心は寝ても醒めても一謎語に注中されている『革命!』」と感慨を覚え、以後、木下は学校で「クロムウェルの木下」と呼ばれるようになる。英吉利法律学校から東京専門学校に転校し卒業。
木下はキリスト教に出合い、廃娼運動、禁酒運動などに専念するが、その後「信府日報」の主筆を経て、三国干渉に対する遼東還付反対運動で共闘した石川半山の後を継ぎ、「信濃日報」の主筆を務めている。木下は選挙疑獄事件の容疑で警察につかまるが、「一年半の鉄窓生活は、僕の生涯にとって、実に再生の天寵であった」と述べている。人生の学問をしたのだ。
1899年、毎日新聞に入社。「世界平和に対する日本国民の責任」と題する論説を執筆し、以後、平和と反国体を唱える。田中正造の足尾銅山鉱毒事件問題や普通選挙運動に積極的に取り組んだ。
1901年、社会民主党の結成に参加。日露戦争前夜には 「人の国を亡ぼすものは、又た人の為に亡ぼさる。是れ因果の必然なり」と主張し、非戦運動を展開した。また 反戦小説『火の柱』を毎日新聞に連載し、ペンを武器に戦った。
1906年、社会主義から離れる。木下は尊敬する田中正造の死に立ちあっている。長髪白髭の田中正三造は日蓮を思い起こすとも書いている。「独り聖人となるは難からず。社会を天国へ導くの教や難し。是れ聖人の躓く所にして、つまづかざるは稀なり。男子、混沌の社会に処し、今を救い未来を救ふことの難き、到底一世に成功を期すべからず。只だ労は自ら是に安んじ、功は後世に譲るべし。之を真の謙遜と言ふ也」との田中正造の言葉を紹介している。これは名文だ。この一文を読んで、田中正造は偉い人だと感じた。
同郷人の新宿中村屋の相馬黒光は著著『穂高高原』の中で、木下尚江を「顔色蒼白、痩形、眉宇の間なんとなく苦走り、また神経質らしい、それを太い線で、自らおさへてゐる」と描写している。
この時代、人物描写をよくしたのだろうか。木下尚江は社会民主党結成時に同志となった人々を描いている。『木下尚江作品集』でみてみよう。当時の若い社会主義者たちの風貌や特徴がよくわかる達文である。
幸徳秋水。中江兆民門下の麒麟児は「色は小黒いが眉目の秀麗な、小柄な若い男」「幸徳の本領は詩人だ。彼が低く細い声で徐ろに度肝を吐くとき、一種の精気、ーー鬼気ともいふべきものが、相手の肺腑を打つ」。
安倍磯雄。「中肉中背、黒の外套に中折帽子、あから顔に鳩のやうな柔和な目、如何にも清高の感じのする年少紳士」。
片山潜。「一たび憎悪に燃えて、野獣の如く叫ぶ頑健粗野な体躯面貌は、あたかも岩石の聳ゆる如くに聴衆を圧倒する」。
堺利彦。「常識の人、事務の人、強健で、、、一切万事一人で忙しく切って廻すところに、堺君の興味があった」。
ジャーナリスト木下尚江は、生涯一貫して社会改革を唱えた熱血漢だった。その尚江が「人は実に事業の糸によってのみ、自己を永く世界に織り込むことが出来る」との名言を吐いているのは意外な感があるが、真実を衝いている。確かに、何かの事業で何かの役割を果すことは、その事業の中に自分を織り込むことだ。その事業を糸として世界に織り込むことができたなら、自己を世界に織り込んだことになる。自らが関与する事業に、広く、深く、自己を上手に織り込むことができたなら、永遠の命を授かったことになるということだという木下尚江の主張に共鳴する。この人のことと、田中正造については、さらに研究をすすめたい。
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