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「名言との対話」6月16日。大倉喜七郎「成功者はおやじの喜八郎さ、おれは息子でひとつ足りないから喜七郎てんだ」

大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年明治15年〉6月16日 - 1963年昭和38年〉2月2日)は、大倉財閥2代目総帥

大倉喜八郎が築いた財閥の御曹司として生まれる。18歳で英国のケンブリッジ大学に留学し、7年を過ごす。ボートやスキー、自動車、そして美術、音楽などの文化にも造詣を深めた。「バロン(男爵)・オークラ」とも呼ばれていた。父は91歳まで家督を譲らなかったため、部屋住みの期間がながかった。大倉財閥は直系15社に加え、大倉鉱業、大倉商事、日本無線東海自動車、帝国ホテル、川奈ホテルなど200社以上の関係会社を傘下におさめていた。

喜七郎独自の事業としては、1930年にローマで開催した日本画の大展覧会のために、横山大観を団長とする芸術使節団を送り込んだことを思いだした。大観の「夜桜」など大作の名画ばかりであった。準備の映像をみたことがあるが、大観が笑っている姿をみることができた。

腹違いの弟の大倉雄二が書いた『男爵 元祖プレイボーイ 大倉喜七郎の優雅なる一生』(文芸春秋)を読んだ。雄二は父が83歳の時に60歳以上年下の母から生まれた庶子である。恵まれた嫡男を貧しい庶子の視点から描いた伝記である。

午前は関係各社の社長、会長業。午後はアシスタントに囲まれて作曲をしていた。そしてプレイボーイ、浪費家、通人、粋人、光源氏などと呼ばれていた遊び人だった。「バロンは文化的すぎるよ」と言われるほど、壮大な不労所得で一流の芸術家、芸人に援助するだけでなく、日本ペンクラブ日本棋院にも大きな援助をしていた。

敗戦で満州、シナ、朝鮮にあった全財産を失った。そして財閥解体により公職を追放され、全てを手放すこととなった。

しかしホテルへの未練は断ち難く、1958年には「世界一のホテルを作る」と、76歳で資本金10億円を集め、新ホテル建設のための会社を設立する。私有地の私立美術館「大倉集古館」以外の部分がホテルの建設用地となった。3年後に「世界に通じる日本の美と心」をテーマとしたホテル・オークラが完成する。雄二は喜七郎が「知っていたのは金の威力で、価値ではなかった」と書いている。喜七郎は。80歳で死去。

それにしても父の喜八郎が、ひとつ足りないとして、喜七郎と命名したの不思議だ。生まれたてなのにわかるのだろうか。しかし大倉財閥として名前が残ったのは、喜七郎の「ホテル・オークラ」である。今までこのホテルには何度も足を運んだし、大倉集古館も堪能しているが、このようなドラマがあったことを初めて知った。


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