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「名言との対話」12月8日。山本権兵衛「功労者は勲章をやればいいのです。実務につけると、百害を生じます」

山本 権兵衛(やまもと ごんべえ / やまもと ごんのひょうえ[4][5][6]、旧字体: 山本 權兵衞 1852年11月26日〈嘉永5年10月15日〉- 1933年〈昭和8年〉12月8 )は、日本海軍軍人政治家。

鹿児島出身。少年時代に薩英戦争、戊辰戦争に従軍。維新後に昌平校、開成所で学んだ後、海軍兵学寮を卒業。1895年、海軍少将として海軍軍務局長。1898年、47歳で第2次山県有朋内閣の海軍大臣となり、伊藤博文桂太郎内閣でも留任し8年つとめ、日露戦争を勝利に導いた。

1913年、政友会の支援を得て内閣総理大臣に就任。軍部大臣武官制の廃止などを行った。翌年海軍高官汚職シーメンス事件で総辞職。1923年9月関東大震災のさなかに第2次内閣を組織し、復興院総裁に後藤新平をあて、大森房吉東大教授の献策を得て復旧ではなく復興をテーマとして震災後の復興処理にあたる。虎の門事件の責任をとって総辞職した。陸の長州、海の薩摩とされる薩摩閥の中心的人物であった。

この人の本名は「ごんべえ」では体裁が悪いと、「ごんのひょうえ」と呼ばせた。

軍務局長時代には海軍の近代化のため、大リストラも断行、士官の海外留学を奨励、秋山真之などはこの恩恵を受けて成長している。そして陸軍参謀本部の中にあった海軍軍令部の独立を10年かけて実現し、海軍を陸軍と同等の地位に引き上げた。

日露戦争にあたり、運がいいという理由で東郷平八郎連合艦隊司令長官に任命し、その結果ロシアのバルチック艦隊を撃破している。この時の作戦参謀が秋山真之であった。

私は江藤淳『海は甦る』を読んでいる。当時の江藤のエッセイを思いだす。山本権兵衛を題材にしたこの歴史小説の連載をしていた頃、山手線の車内で品のいい紳士が「文芸春秋」の、その連載を読み始めたというエッセイを書いていた。山手線に乗って座ったら向い側の紳士が熱心に読んでいる姿をみた。江藤は驚き、そのまま食い入るようにその紳士の表情と目線を追い、その姿と表情ををじっと感動を持って眺め続け、声をかけることができなかったことを悔いていた。

福沢諭吉については「自慢話や成功談はせずにやり損ないの話ばかりする。ここが偉い」と感心したと山本権兵衛が語ったいうエピソードもある。

「東郷は、運の良い男でございますから、しかるに、必ずや勝利致しましょう。」

「後世、日本海海戦が神秘的な力で勝ったように思われては、日本の運命が危ぶまれる。 」

「東京を復興するの努力如何は世界列強の環視する所、我が邦の実力如何を知るの試金石、またここに在り。」

以上に見るように、山本にはそれぞれ、歴史を紡いだ名言がある。最重要人事、戦争勝利の要因、大震災からの復興の意義など、眼光炯々として虎の目を持つといわれた山本権兵衛の目は、深い洞察に満ちている。

功労と役職との関係は、常に難しい人事上の大テーマだ。功労があるからといって、難題の解決を期待される地位や仕事を与えると問題が生じることがよくある。危急存亡の時にあたては、過去の功績に対しては賞賛や報酬で報えばよいという決断をする場合もある。国家や組織の命運を賭ける地位には私情を捨てて非情になって、慣例にとらわれず、最高の適材をあてなければ成功を手にすることはできない。山本権兵衛という人物を得たのは明治の日本にとって、幸運だった。



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