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9月4日。萩元晴彦「創造的な仕事とそうでない仕事があるのではありません。創造的に仕事をする人と、そうでない人があるのです」

萩元 晴彦(はぎもと はるひこ、1930年3月7日 - 2001年9月4日)は、日本のテレビ制作者・音楽プロデューサーである。

ロシア文学のチェーホフを論じた卒論で早大卒後、TBSに入社。報道部、社会部を経て、1963年にテレビ報道部に転じドキュメンタリーの演出を手掛ける。1966年「小澤征爾 第九を揮る」で民放祭賞、「あなたは、、」で芸術祭奨励賞。1967年テレビドキュメンタリーに新しい方法を開拓したとしてギャラクシー賞を受賞した。11970年、TBSを退社しテレビマンユニオン設立に参加。「遠くへ行きたい」「オーケストラがやって来た」「ハロー!スポーツ」などの制作を担当した。テレビ大賞優秀番組賞、芸術選奨文右大臣賞を受賞。

1927年7月から1976年4月までに、テレビマンユニオン代表、プロデューサーとして書き送った「赤坂短信」というダイレクトメールをまとめた本を読んだ。このタイトルは自身が学んだ自由学園の学園主・羽仁吉一の「雑司ヶ谷短信」にあやかってつけたものだ。若い時代に神、聖書、志、理想について考える契機となった短信だ。羽仁先生からは「小鍛治」の物語を教えられる。良い剣を打つためには「自分におとらぬほどのものの相槌がなくては叶いませぬ」という部分に強い関心を抱く。相槌とはそういう意味だったのか。

「しなやかに、したたかに」をモットーにして出発したテレビマンユニオンは「合議」「対等」「役割分担」が申し合わせ事項だった。相槌の打ち方がみな優れていたのだろう。ユニークで志の高いこの会社は成功を収めた。

自由学園では2年下の山本直純。そしてその友人の岩城宏之や小澤征爾との交友があり、それが後のテレビ番組に結実する。長野県安曇野では14歳から18歳まで常念岳をみて過ごす。同郷の作家・臼井吉見は小学校の校長から毎日「常念を見よ!」といわれ、数分間常念と相対するのが常だった。そういう教育が人を育てたのだろう。

荻元は「面白くてためになる」番組を志した。このフレーズは信州人的だそうだ。テレビ番組は「面白い」のは当然だが、「ためになる」は高い理想だ。貧乏な信州は教育に力を注ぎ効果はあったが、同時に学問的に学ぶから、例えば「音楽の歓び」はなかなか理解できないとも語っている。

テレビ番組をつくるのは創造的な仕事だ。そして優れたプロデューサーは創造のかたまりのような人だろう。しかし、萩元はそうではないと言う。創造的に仕事をすることが大事なのだ。世の中に卑しい仕事はない、卑しい人がいるだけだ、との言葉もある。どのような心意気で課題に対処するか、ここが肝なのだ。

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