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「名言との対話」1月25日。牧野伸顕「私ならどうするということをなぜ、考えないのか」

牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日文久元年10月22日) - 1949年昭和24年)1月25日)は、日本政治家

11歳で岩倉遣欧使節団に参加し、そのままフィラデルフィアの中学に入学。帰国後開成学校(東京帝大)に入り、中退し外務省に入省する。ロンドン大使館、太政官などを経て黒田清隆首相秘書官、福井県知事、茨木県知事、文部次官。イタリア公使、オーストリア公使。第一次西園寺内閣の文部大臣。男爵。第二次西園寺内閣の農商務大臣。第一山本権兵衛内閣の外務大臣。官僚政治家、自由主義的政治姿勢、薩摩藩閥の一員という独自の位置を持った。第一大戦後のパリ講和会議の次席全権として采配をふるった。子爵。元老と内大臣の仲介者として後継首班の奏請に関与していく。内大臣。伯爵。2・26事件では英米派の代表として襲撃されるが無事だった。

父は大久保利通(次男)、娘婿は吉田茂、ひ孫は麻生太郎という系譜の中にある人物で、大臣などの要職は多かったが、不思議なことに首相には就任していない。しかし常に政治の中枢にいた。薩摩閥にありながらオールドリベラリストとも呼ばれる自由主義者でもあり、保守と進歩の均衡の中、政治と宮中の間に立つという独特の立ち位置の人である。

牧野の娘婿である吉田茂は、ワシントン大使館に赴任した。若き吉田は東京から届く電信を受け取り、すぐに大使に渡すという単調で意味のない仕事に嫌気がさし、自分のように有能な人間を大事な仕事に使わないのは日本の損失だととして、 外交官を辞めると岳父の牧野に手紙を書く。

「お前はなんという大馬鹿ものだ。我以外みな師なりという言葉を、お前は忘れたのかと叱責し、「大使よりも先にその電文を読むことができる立場にある。その廊下の間の何秒間で電文を見て、私ならどうするということをなぜ、考えないのか」と諭す。続けて「後で大使の行動を見て、自分の思ったことと違ったら、それがなぜかと考えてみる。そうやって勉強すればいいじゃないか。思ったとおりだったら、自分は大使並みだと喜べばいいじゃないか。こういう勉強ができる恵まれた立場にいるにもかかわらず、それを絶望したとは何事であるか」と返事をしている。

あまりできがよいとは言えなかった若い頃の私も、折にふれて上司たちから同じような教訓をもらってきた記憶がよみがえる。たとえば、役職者の重要会議に出す書類のコピーとりは、上司が読まさせて教育しようと考えてのことだ。たとえば、担当者として書類を書く時、どうせ上が直すだろうという安易な考えで気合を入れていないのを見破られれる。どうせ、上が考え、決めることだと安易に情報をあげるだけで済ませてしまっていて、「君なら、どう考えるか」と訊かれて返答に窮してしまう、、、。仕事というものは、上司というものは、ありがたいものだと思う。企業などの組織は実は学校だったのだとつくづく思う。

牧野伸顕は明治政府の立役者・大久保利通という父と、戦後日本を立ち上げた娘婿・吉田茂をつなぐ、重要人物であることは論を俟たない。明治新以降の人物や書物をみていると、この人の影を常に感じることになる。明確な像として結ばない、影の薄い印象の人だった。私が感心したのは、牧野伸顕という人物の仕事への取り組み方だ。

吉田茂とのエピソードでは、「自分ならどうするか」、常に回答を用意しようとする心構えの大事さを教えてくれる。そこで吉田が外務省を辞めていたら、戦後日本はどうなっただろうかと考える。池田勇人佐藤栄作へと続く吉田学校の人脈もなかったかもしれない。人は人によって育てられ、そして人を育てる。そういった人の流れが歴史を形づくっていくのだ。

以上を、数年前に書いた。牧野自身について追加する。牧野の残した膨大な記録は貴重である。参考資料は、「国史大辞典」「日本大百科全書」。

牧野伸顕大久保利通の次男であり、薩長藩閥政府の主役であった薩摩閥の巨頭で、昭和天皇の側近で政治の重要事項に関与した人物である。様々の本で牧野の名前がでてくることを経験している。つまり、日本近代の後半、つまり「尊王攘夷」路線の破綻の時代を疾走した人物だったのだ。機会をつくって『日記』は読んでみたい。

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