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「名言との対話」2月16日。斉藤秀三郎「語学修得は第一に多読である。分からんでもよろしいから無茶苦茶に読むのである。元来人生は分からんことばかりではないか。それでも広く世を渡っているうちには処世の妙諦がだんだんと会得されてくる。語学もこれと同じである。広く読んでいるうちに自然と妙味が分かり、面白みが出て来て、しまいには愉快で愉快でたまらなくなるのだ」

斎藤 秀三郎(1866年2月16日(慶応2年1月2日) - 1929年(昭和4年)11月9日は、明治・大正期を代表する英語学者・教育者。第一高等学校教授。宮城県仙台市出身。

斎藤秀三郎の英語勉強は常軌を逸していた。自分の研究は戦争だと語っており、寝ても覚めても暗記にいそしんだ。斉藤和英大辞典の「犠牲」の項には、自分は自国語を犠牲にして英語を学んだと説明していた。

斎藤の仙台英語塾には、吉野作造も参加したが、あまりの短気に恐れをなして一日で辞めてしまったというエピソードも残っている。訳語を求める一徹な姿勢は日本の英語教育に大きな影響を与え、詩人の土井晩翠がバイロンの翻訳をしたのは斎藤の影響だった。

語学修得は多読がいいと斎藤は言う。どのような分野でも量をこなさなければものにはならない。量をこなすと興味が湧いてくる。奥の深さが分かって面白くなってくる。そして知識が広くなり洞察が深まってくると、学習自体が愉快になってくる。何ごとにも斉藤秀三郎のような取り組みをすればいいということはわかる。

冒頭に紹介した言葉は、1924(大正13)年に創刊された『受験英語』(主筆・湯山清)という雑誌に斎藤が書いたものである。多読の後は、研究になる。語学はしだいに深く、広くなっていく。際限がない世界だ。そして道は困難を極めるようになる。それがまた愉快の念が湧いてくる、というのだ。

斎藤秀三郎の次男の秀雄は音楽の道に進んだ。指揮についてのシステムを確立し、指揮法を後進に伝えた唯一の日本人で、小澤征爾、山本直純、岩城宏之、尾高忠明らを育てた人だ。桐朋学園大学の基礎を築き、学長もつとめている。父とは分野は違うが、同じような性向を持っていたのであろう。

「辞典」という世界は魔物である。三浦しをん『舟を編む』では、編集チームが、曲折を経て15年かけて辞典を完成させる姿に感銘を受けた。「辞典」に命を懸けた人々には、『新明解国語辞典』の山田忠雄、『三省堂国語辞典』の見坊豪紀、『大漢和辞典』の諸橋徹次、『字通』など3部作を13年半で完成させた白川静、『岩波国語辞典』を20年で完成させた大野晋、『仏教語大辞典』を20年かけて終わりに近づいたときに出版社が紛失し、さらに8年かけてなし遂げた中村元など、辞典の世界にはドラマが多い。外国語の辞書では、『岩波英和辞典』(共著)の田中菊雄、『クラウン仏和辞典』の多田道太郎、『スワヒリ語辞典』の西江雅之、『アイヌ語辞典』の萱野茂などがいる。

『大日本地名辞書』を編んだ吉田東伍は、「悪戦僅に生還するの想いあり」と辞書づくりの苦労を語っているが、『斎藤和英大辞典』を編んだ斎藤秀三郎は「天国の言語は英語だよ!」とまで言って愉しんでいる。

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