「名言との対話」5月6日。九鬼周造「人間は自己の運命を愛して運命と一体にならなければいけない。それが人生の第一歩でなければならない」。
九鬼 周造(くき しゅうぞう、1888年2月15日 - 1941年5月6日)は、日本の哲学者。京都帝国大学教授。享年53。
東京出身。先祖は九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆、父は文部官僚の九鬼隆一男爵。周造を妊娠中の母・波津子はアメリカから帰国の途中、送っていった夫の部下であった岡倉覚三(天心)と恋に落ち、別居、離縁となる。この事件は世間の耳目をそばだてたが、九鬼と岡倉の仕事上の交流には影響を与えていない。
一高文科から、東京帝大文科大学哲学科でケーベルに学ぶ。大学院を中退。九鬼は亡くなった次兄の妻と30歳で結婚する。1921年から8年間のヨーロッパ留学。ドイツでは新カント派のリッケル、フランスでではベルクソンとと面識を得る。フランス語の個人教授の先生は若きサルトルだった。ドイツに戻りハイデッガーに現象学を学び、1929年の帰国後は日本に紹介した。
最初の結婚が破綻した後、再婚の相手は祇園の芸鼓であった。九鬼は京都帝大で哲学を教え、講師、助教授を経て、1935年に西洋近世哲学史講座の教授となる。1930年に『「いき」の構造』を発表、1932年には「偶然性」をテーマに博士の学位を得ている。1935年、『偶然性の問題』を刊行。
「書斎漫筆」では青年時代からの愛読書をあげている。『キリストのまねび』、ヒルティ『眠られぬ夜のために』、ニイチェ『ツァラトゥストラ』などを読むが、全面的には共感できない。そういうものは自分で書くよりほかはないと思う。しかし自分の中の悪と善の双方をさらけ出すのは躊躇がある。それでも注文のもあるし、書きたいと思うこともあるとし、いくつか本を紹介している。プラトン『饗宴』は道徳と芸術と宗教と哲学の中核をつかんだ名著で、ルネサンスでは聖書と並ぶ評価だった紹介している。一高時代は独法科で外交官志望であったが文科に転じたのは、この書の影響であったと述べている。聖フランシス『小さき花』には本当のものがある。学問と思索の方法を自叙伝風に書いているデカルト『方法序説』。哲学とは何かを紹介したベルクソン『形而上学入門』。永遠と輪廻を扱った『那先比丘経』。歌の音楽性を欲求した藤原浜成『歌経標識』。奴隷から自由の身になった不屈の人・エピクテトスの『遺訓』。
「偶然と運命」。「運命とは偶然の内面化されたものである」。「人間は自己の運命を愛して運命と一体にならなければいけない。それが人生の第一歩でなければならない」。九鬼の文章の中には、西郷隆盛が出てくる。「天を相手にして人を咎めず、わが誠の足らざるをたずぬべし」という言葉が好きだと語っている。この言葉は、私も大学生時代に愛した言葉であり、九鬼周造も同じだと知って共感した。
「岡倉覚三氏の思い出」。岡倉覚三(天心)を九鬼は幼い頃「伯父様」と呼んでいた。母と天心の夕餉のときに、母の膝に抱かれていた。美術学校に連れて行ってもらって、橋本雅邦に写生してもらったり、天心自身からも絵を描いてもらった。天心は犬好きだった。九鬼は天心の天才をみていた。
九鬼周造の代表作をひも解くのではなく、随筆を手にしてみた。哲学書は客観性を重んじるが、随筆には「自分」がでてこざるを得ない。だから、日常の暮らしや心の本音がいやでもでてくる。公人としての顔ではなく、私人としての顔をみることができる。だから、最近は自伝だけでなく、エッセイを読むようにしている。九鬼周造について、この本を読んだために、血と肉と感情を備えた人としてまみえることになったはよかった。
九鬼周造については「人間は自己の運命を愛して運命と一体にならなければいけない。それが人生の第一歩でなければならない」を採ることにしよう。
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