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6月28日。 宮澤喜一「一億一心の対極、それがリベラル」

宮澤 喜一(みやざわ きいち、1919年(大正8年)10月8日 - 2007年(平成19年)6月28日)は、日本の大蔵官僚、政治家。

宮澤喜一の年譜を眺めると、大蔵大臣秘書官時代を含め26歳あたりから84歳での衆議院議員引退まで60年近く、保守本流として自民党と政権の中枢で長く仕事をしたことに驚きを覚える。『宮澤喜一回顧録』を読むと、戦前から戦後、そしてイラク戦争あたりまでの歴史がみえてくる。

宮澤は父の関係者であった保証人・池田勇人との縁で大蔵省に入り、30歳前後で池田大蔵大臣秘書官をつとめたところから人生の方向が決まっていく。池田勇人が総理になったとき、師匠の吉田茂は反対したが、「寛容と忍耐」というフレーズで登場した。大平正芳が「忍耐」を提案し、宮澤が「寛容」を提案した。

経済企画庁長官、通商産業大臣、外務大臣、内閣官房長官、副総理、大蔵大臣、郵政大臣、農林水産大臣、財務大臣(初代)、内閣総理大臣などを歴任した。政治家生活50年のうち、閣僚であったのは実に18年であった。「戦後政治の生き字引」と言われた。

安倍晋太郎・竹下登らと共に「ニュー・リーダー」の一角を占め、この3人は「安竹宮」と呼ばれている。総理総裁は推されてなるものと考えていた宮澤は1991年に72歳で総理に就任している。

政界きってのインテリであった宮澤は、酒豪、酒乱でもあり、温厚な外見に似ず毒舌家でもあった。新聞記者であった私の友人は宮澤をイヤな奴だと嫌っていた。どうも人格者とは言い難いようだ。京都に行くと必ず司馬遼太郎と梅棹忠夫と酒を飲んだとのエピソードがある。「司馬遼太郎は日本を描いた、宮澤喜一は世界を見た、梅棹忠夫は人類を考えた」。これは、2011年にウメサオタダオ展で見かけた言葉である。この3人の酒席での会話を聞いてみたいものだと思ったことがある。

「政界随一」と謳われた宮澤の英語力は有名だが、宮澤自身は東洋的な思想を好むと述べ、しばしば好んで漢詩を引用した。総理退陣の時の心境として、王昌齢の「一片の氷心玉壷にあり」を挙げている。

「政治家というのが、そういう特殊な人間であってはいかん、と思うのです。むかしのギリシャみたいに、市民みんなが、当番でもって代議士になり、大臣になったりする、そういう性質のものとして考えるようになるべきだ」

宮澤の考えはこうだ。日本が核兵器を持った一流の軍事大国になることは日本のためによくない。日米関係の下に日本の安全保障があることはやむを得ない。そして21世紀の日本には、軍事大国にならないことと、経済援助を大事にし経済援助大国になることを提唱している。

現在では影の薄くなった保守本流、ハト派の宏池会の流れの中にあった宮澤喜一は、リベラルとは「一億一心の対極」にあると述べている。一億火の玉、一億総保守、、など時代の空気に同調しない。主義主張を声高に論じるのではなく、全体の制約から距離を置いて、独立した個人とした自由な生き方、自分で考えることを放棄しない、自立自尊、それがリベラルであるということだろう。心に留めておきたい言葉である。

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