「名言との対話」8月19日。菊池大麓「大地震が明年にもあるかも知れぬ。あるい明日にもあるかも知れぬ」

菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日(安政2年1月29日) - 1917年(大正6年)8月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の数学者教育行政 男爵理学博士。享年62。

蘭学者の一族で有名な箕作坪の次男として江戸に生まれる。大麓は父の実家の養嗣子となった。父の父は箕作阮歩甫の弟子であり、母のつねは阮甫の三女であった。

菊地は英国に二度留学している。二度目ではケンブリッジ大学で数学と物理学の学位を取得した日本初のケンブリッジ大学卒業生となった。

帰国後の1877年に東京大学理学部教授になり。その後、総長に就任した。そして文部次官、文部大臣、学習院院長、京都帝大総長、理化学研究所初代所長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した人物である。

NHK連続テレビ小説「らんまん」で、牧野富太郎の敵役となった矢田部良吉が話題になっているが、矢田部の適役として菊地大麓もでている、牧野は自叙伝で「大学当局が、矢田部良吉教授を突如罷免にしたのである。その原因は、菊池大麓先生と矢田部先生との権力争いであったといわれる」と触れている。菊地は矢田部より4つ年下であったが、政治的手腕もあり、牧野の支援者でもあった浜尾新総長の支持もあり、学内の学長争いに勝ったのだろう。この辺りは、調べなければならない。

その後の、菊池の活躍は述べたとおりであるが、菊池は男爵を受爵している。本日の薬史学会のセミナーで私の前に登壇した小曽戸洋先生によれば、勲一等をもらうと男爵になるということだった。

因みに、天皇機関説で有名な美濃部達吉と菊地大麓の長女の母との間に生まれた長男が、東京都知事となった美濃部亮吉だ。

1891年に濃尾地震が起こる。M8.0 で日本最大規模の直下型地震だった。愛知県と岐阜県を中心に14万棟の家が全壊、7000人以上が死亡した大惨事となった。貴族院議員であった菊池は帝国議会へ震災予防研究の必要性を説く建議案を提出。この時、菊池は有名な演説を行っている。

冒頭に紹介した言葉の後に、大地震への備えのための調査を怠ったら、子孫から責められるだろうとした。「あれだけの地震があったのにあの時に於てなぜ地震の事に就いて十分なる取調をしてなかったのであるか、あのときに幾分か取調べて置いたならば今回の震災は是程でもなかったらと言って我々を責めるでありませう」。

1892年6月、文部省所管の震災予防調査会が勅令により発足。菊池は委員となって、震災予防事業のために尽力し、明治・大正期を代表する地震学者の関谷清景や大森房吉らの研究を献身的にバックアップしている。

菊池大麓は、専門の数学や教育分野だけでなく、広い視野で日本近代の科学行政の基礎を築いた人である。

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