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6月13日。 村田英雄「足がなくても歌は歌える」

村田 英雄(むらた ひでお、1929年(昭和4年)1月17日 - 2002年(平成14年)6月13日)は、日本の演歌歌手、俳優。

4歳で初舞台、13歳で浪曲師・酒井雲坊の名でデビューし、天才少年浪曲師と呼ばれた。「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京し、25歳で村田英雄に改名する。

1958年、古賀政男に見出され、『無法松の一生』で歌手デビュー。1961年11月に発売した西條八十作詞船村徹作曲の「王将」が戦後初のミリオンセラーとなり、翌1962年に第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。以後、数多くのヒット曲を飛ばし、国民的歌手となっていく。

1981年頃、ビートたけしが自らの番組で取り上げた事から、若年層のファンが急増し、三橋美智也のミッチーに対抗し「ムッチーブーム」と言われるようになる。

1988年、同年代で同時期に活躍し、歌謡界をリードしてきた三橋美智也、春日八郎と「三人の会」を結成、ジョイント・コンサートなどで活動した。

村田英雄の歌で私の耳に残っているのは、王将、皆の衆、姿三四郎、夫婦春秋、祝い節、男の一生、人生劇場、無法松の一生、夫婦酒、空手一代、、などだ。野茂英雄は、実父が村田英雄のファンだったことから、英雄と付けられたという。

没後の2004年に故郷の佐賀県唐津市に「村田英雄記念館」がオープンした。年に1回の「村田英雄音楽祭」、「生誕祭」(1月17日)が行われている。

NHK紅白歌合戦には1961年に初出場、1989年までに通算27回の出場を果たしたのだが、村田は野菜嫌いで肉食であったこともあり、その人生は「糖尿病との闘い」でもあった。35歳で糖尿病を発症。1996年には右膝下12センチで切断。2000年1月には左足も同様に切断し、車椅子生活となる。「足がなくても歌は歌える」は自ら鼓舞をした言葉である。生涯現役のまま、村田英雄の豪快な「人生劇場」は73年の幕を下ろした。

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