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「名言との対話」11月29日。中曽根康弘「私はいつも思いついたことを書き留めるノートを持ち歩き、夜寝るときも枕元にメモをする紙を置き、頭に浮かんだアイデアをメモしていった。それをトップダウンでやらせたのである」

中曽根 康弘(中曾根 康弘、なかそね やすひろ、1918年〈大正7年〉5月27日 - 2019年〈令和元年〉11月29日)とは、日本の政治家である。

群馬県生れ。東京帝国大学法学部卒業後、内務省入省。海軍主計少佐、警視庁監察官等を経て、1947(昭和22)年衆議院議員に当選。1959年科学技術庁長官、1967年運輸大臣、1970年防衛庁長官、1972年通産大臣、1980年行政管理庁長官等を歴任し、1982(昭和57)年内閣総理大臣に就任。首相在職日数は1806日という長期政権だった。著書に『青年の理想』『日本の主張』『新しい保守の論理』『中曽根康弘句集』『政治と人生』『天地有情』『自省録』『保守の遺言』他。公益財団法人世界平和研究所会長。

2014年に中曽根康弘・ロナルドドレーガン日米首脳会談記念館を訪問した。西多摩の「日の出山荘」だ。日米の親善と東西冷戦を終結に導き、世界平和に貢献した両首脳の会談が行われた場所を公開した記念館だ。両首脳は1983年1月18日から1987年9月21日まで計15回にわたって会談を行っている盟友である。第5回の首脳会談が行われたのがこの山荘である。 「政治家は小さな家に住んでいなければならないんだ」という考えだったが、1962年に母家と周辺の土地を別荘として買い取り「日の出農場」と命名、柱と梁を残して改築。草刈りや畑仕事を楽しんでいた。ときには自分で車を運転し山荘に来ていた。2006年に町に寄贈されている。

1983年11月11日に山荘に到着したレーガン大統領をもてなした山荘。江戸末期の1850年ごろに建てられた茅葺の農家の「青雲荘」。90.90ヘーベ。レーガン大統領夫妻に囲炉裏を囲み中曽根総理が自ら甜茶を点ててもてなした場所。おそろいのちゃんちゃんこを着た。総理が若者を育てた「青雲塾」から名前を取った。青雲塾修学原理は「生きたままの最高の芸術品にその人生を完成して世を去る事を修学の目標とする」。

ロン・ヤス会談が行われた「天心邸」。ここで中曽根総理、俳句、座禅、読書、短波放送などの趣味を愉しみ寝泊まりしていた。24.79ヘーベ。通訳なしで会談を行った。

レーガン大統領からは後に「日本の伝統ある美しい農家のたたずまいと、東京郊外の静かな風情の中での会談は、日本の思い出の中でも、とりわけ印象が深かった」との礼状が届いている。1989年(平成元年)に新築した2階建ての迎賓館「書院」。370.63ヘーベ。総理退任時に政治の舞台で苦労をともにした友人たちを招いた。「限りある命ゆえ命の限り自然と人間とわが祖国を愛す」(中曽根康弘)との額も。

この広いバルコニーで食を楽しんでもらう洋風と、青雲堂や天心邸で茶を点てもてなすという和風という明治期の接客を意識した山荘だ。「庭園」は5738.31ヘーベ。訪れた各国首脳、友人たちが植樹した記念樹、俳句碑、全斗カン大統領から寄贈された半鐘、総理愛着のガマガエルなどがある。ゴルバチョフソ連大統領も訪れている。「くれてなお命の限り蝉しぐれ」「われに鳴く油蝉あり庭の桐」、、。

帰って、山荘で買った「中曽根康弘句集」を読んだ。「特に師匠もいなく、季語も忘れ、体裁も整わず、感慨を句に托してよろこびを感じている日本人が何百万人といると思うが、私もその一人である。」。「賓客と歩む山荘秋深し」「したたかと言はれて久し栗を剥く」「遠近の蝉鳴きそろひ朝となる」。

 この花を母にそへたきあやめかな(衆議院議員初当選)
 老朋友の掌のむくみ秋天下(胡耀邦総書記と再会)
 鐘鳴りて地の時とまる原爆碑
 午後の日のまぶしき秋に官を辞す(内閣総理大臣を辞す)
 秋晴れや風吹きとほる家に帰る(、、)
 面映ゆき畏き御沙汰風薫る(大勲位菊花大綬章)
 千年の波打ち寄せて年明ける
 空はるか桜はるかへ球打てり(娘夫婦、孫とゴルフ)
 燗酒のあぢはひあらた職を辞す(国会議員を辞す)
 木枯しや一本の杉たじろがず
 人生はいよいよ尊し風薫る

中曽根康弘「保守の遺言」(角川ONEテーマ21)。2010年5月発行の時点での民主党新政権の見通しも的確だった。

・結局は近い将来、何らかの形で増税に踏み切らざるを得なくなるにのではないか。ただ、問題は増税のタイミングである。、、タイミングを間違うと選挙に直接影響を及ぼす。(民主党菅政権が消費税増税を打ち上げた参院選の大敗を予測)
・普天間問題、、。結局は当初考えていた場所に落ち着かざるを得なくなるのではないか、その可能性大と言わざるを得ない。(鳩山政権の迷走と結末を予測)
・鳩山、小沢、菅の三人の協力関係が崩れたとき、政権が自民党に移るという危惧を絶えず持っていたほうがいい。(民主党菅政権の反小沢人事の結末を予測)
・小沢君、、。現状を打破する推進力は、他の政治家の追従を許さぬもので、彼が節度を重んじ、重大な出るべき時に推進力になったら、戦後政治に名を残す政治家の一人になるだろう。(9月の代表戦がそれになるか?)
ここ十数年の政治情勢を振り返っていると、大東亜戦争が始まる頃の様子と酷似している部分が多く、不安にかられる。
・先の戦争が起きた原因を考えるとき、その元凶は官僚主義であるというのが、私なりの結論である。
・私は、、、NHKのハングル講座などで身につけていた韓国語を駆使して挨拶したのである。
・私は、総理在任中の多忙なときでも、日曜日には必ず、夜、東京・谷中の全生庵という寺で座禅を組んでいた。
・保守という政治を掲げる自由民主党は、日本の歴史、伝統、文化というものを非常に大事にし、その精神を受け継ぎながらも、常に新しい社会、新しい世界へ挑戦していく市政をもている。
・自民党の保守政治に飽き、もうひとつの保守政党を国民が選んだという捉え方をしているからである。、、つまり、「アナザー保守」としての民主党に国民は投票したのではないかと。
・今回、自民党が有権者から見放されたのは、保守党がなさねばならない「改革」を忘れてしまったからともいえる。

浅利慶太は佐藤栄作総理は人の話をよく聞く耳の大きい人だったと述懐している。また中曽根康弘ほど人の話をしっかり聴く人はいないとも語っている。この二人はまわりに民間の人を置いて耳を傾ける人だったようだ。

中曽根康弘は、土井たか子を「非常に生一本な、理念を重んずる、そして真一文字に進んでいく、立派な社会党の党首だと、そういう風に敬意を表していましたね」。「菅政権を一言でいえば、過去も未来もない政権だ」。小渕恵三は「真空総理」、、。

新聞に首相の一日を負う「首相動静」などの欄があり、私はその欄の愛読者だ。長命な総理であった中曽根さんと小泉さんの一日の過ごし方の特徴は、夜の時間にあった。昼間は激務の連続なのはいつの時代も同じだが、夜の過ごし方には差がある。この二人は、様々な分野のトップランクの人と会って食事をしていた。総理として虚心坦懐に同時代のあらゆる分野の優れた人と会い、その知見と知恵に接するようにしていたのだろう。時間をみつけて座禅もやっていた。その後の短命総理の夜は、仲間内の政治家と群れていたという印象がある。それが結局、視野の狭さにつながり、短命に終わる原因のような気がしている。

100歳になった時、健康長寿の秘訣はと問われている。 「規則正しい生活」と「森羅万象に関心を持つこと」(日経新聞)。中曽根康弘「私はいつも思いついたことを書き留めるノートを持ち歩き、夜寝るときも枕元にメモをする紙を置き、頭に浮かんだアイデアをメモしていった。それをトップダウンでやらせたのである」。その大学ノートは13冊あった。大志を抱き、長い間準備をしていたのである。1918年の同年生まれの中角栄は昭和に時代を生きた。中曽根は昭和、平成、そしれ令和の時代も生きている。人生80年時代と人生100年時代の違いを感じる。大宰相中曽根康弘は 101歳186日での大往生だった。

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