見出し画像

「名言との対話」9月13日。小田切進「自分が挑戦すべきテーマを探せ、自分の「星」を探しだせ」

小田切 進(おだぎり すすむ、1924年9月13日 - 1992年12月20日)は、日本近代文学の研究者。

東京都生まれ。8歳上の兄は文芸評論家、近代文学研究者の小田切秀雄。東京府立第十中学校から第二早稲田高等学院を経て早稲田大学国文科で学んだ。

改造社で『改造』の編集に従事し、プロレタリア文学に関する評論を発表。1955年より立教大学に勤務し、のち教授。1990年に退職し名誉教授。

高見順や伊藤整らと日本近代文学館の設立に努め、1963年、専務理事、1964年、この設立運動で高見とともに菊池寛賞を受賞。1971年より理事長。神奈川近代文学館の設立にも尽力し理事長。

1973年、編著『現代日本文芸総覧』で毎日出版文化賞。1993年、紀田順一郎・尾崎秀樹共同監修の『少年小説大系』全32巻(三一書房)が第16回巖谷小波文芸賞を受賞。

著作に「昭和文学の成立」、編著に「現代日本文芸総覧」などがある。

駒場東大前の日本近代文学館には何度か訪問している。

高見順、小田切進ら有志の文学者・研究者が、文学資料を収集・保存する施設の必要を広く訴え、1962年5月、設立準備会を結成、翌1963年4月、財団法人 日本近代文学館が発足し、高見順が理事長。1965年起工式、その翌日に高見順理事長死去し、伊藤整が理事長に就任。1967年4月、東京都目黒区駒場に開館。2007年9月、千葉県成田市に分館を建設。資金はすべて募金によるもの。120万点の資料が収蔵されている。

私は2021年の日本近代文学館の「中里介山『大菩薩峠』--明滅するユートピア」展など何回か企画展をみている。この文学館にある「BUNDANカフェ」は居心地がいい。壁には背の高い本棚がある。メニューは文豪が飲んだコーヒー、小説に出てきた食べ物などがあり、私も行くたびに毎回楽しんでいる。

緊急事態宣言下では美術館、博物館は開館していない期間が長いが、ところが2001年にも日本近代文学館と神奈川近代文学館は開いていたのはありがたかった。

日本近代文学館理事長を経験した小田切は1984年、神奈川近代文学館館長に就任している。横浜の港の見える公園に建つ文学館で私の行きつけの文学館だ。以下、訪問した企画展をあげてみよう。

2021-05-24 「三浦哲郎展--星をかたりて、たれをもうらまず」。2020-10-19 「大岡昇平の世界展」。2019-12-14 「没後50年 獅子文六展」。 2019-11-04 「中島敦展ーー魅せられた旅人の短い生涯」。2019-06-19 「江藤淳展」。2017-10-04 山本周五郎展。2017-06-14「生誕120年 宇野千代展--華麗なる女の物語」。2016-06-12「鮎川信夫と「荒地」展」。2015-04-21 「谷崎潤一郎--絢爛たる物語世界」展。2014-02-11黒岩重吾展。2013-05-06 「井上ひさし展」。2010-12-26 特別コーナー三島由紀夫−没後40年・生誕85年」展。2010-05-03 「城山三郎展-昭和の旅人」。

こうやってリストアップすると、小田切進には随分とお世話になっていると思う。

「自分が挑戦すべきテーマを探せ、自分の「星」を探しだせ」は、立教大学で学生に向けて発した言葉である。自分が生きた時代の文学と文学者たちを顕彰する「近代文学館」をつくることが、小田切進の挑戦すべきテーマであり、自分の「星」であった。文献をよむと、運営の方法について強引だとの批判も受けてたようだが、実現しようという意欲が強かったためでもあったのではないか。

研究者という人たちは書物を刊行し、自己存在の証とする。小田切進はそれに飽き足らず、近代文学館の建設と運営がライフワークとなった。文学館というハードをつくることによって、時間の経過とともに資料が積み上がり、企画展というソフトウエアが充実していく。空間が時間を取り込んいきながら成長を続けていくのだから、大きな仕事である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?