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「名言との対話」 11月27日。エリザベス・ヴァイニング「窓が開かれたのは確かである。どちらに面しているにせよ、窓というものからは、必ず光がさしこんで来る。そして光はよいものだと私は思うのであった」

エリザベス・ジャネット・グレイ・ヴァイニング(Elizabeth Janet Gray Vining、1902年10月6日 - 1999年11月27日)は、アメリカ合衆国の司書・作家。日本ではヴァイニング夫人の名で知られている。

少年時代の皇太子明仁親王(第125代天皇明仁。現在の上皇)の家庭教師をしたことで広く知られる。ヴァイニング夫人は結婚後4年余で自動車事故で夫を失う、本人も重症を負う。この事故による療養中にクエーカー教徒となる。日本に行く前に青少年向けの11冊の本を書く作家であり、帰国後もノンフィクション、伝記、自伝など13冊の本を刊行している。

世界各国でベストセラーになった夫人の『皇太子の窓』という本を読みこんだ。この本は 、1946年10月から、1950年12月までの4年間余に及ぶ日本観察記にもなっている。天皇の人柄、マッカーサー元帥との対面、東京裁判について、国旗、国歌の成り立ちなどが記されており、アメカ人からみた当時の日本の様子が描き出されていて興味深い。こういった記述を通じて夫人の知性と人柄がよくわかり、このような人物が戦後日本を担う皇太子の教育をしたことを僥倖と思わざるを得ない。

夫人が日本に来ることになったきっかけは、昭和天皇が「皇太子の英語教育のためにどなたか紹介してもらえないか」とアメリカ教育使節団のストダード団長に依頼しただ皇皇太子は12歳の少年から17歳の青年になるまでの4年余の間、週に1-2度の英語の家庭教師、そして週8時間の学習院での講義で接し、英語だけでなく、人間形成にも影響を受けている。夫人の教授法は、英語だけを使って英語を教えるというやり方だった。新しい単語を生徒がよく知っている単語で説明して語彙を広げていく方法である。帰国時には皇太子は英語のスピーチを見事にこなすまでになった。

「私は1人の女として、アメリカ人として、殿下の地位よりも殿下の人間に焦点を合わせた一つの立場からお役に立てるはずだ。--私はそう思った」

「大人になったとき自由な人間になろうとするのならば、子どものうちにほんとうの自由とは何かを学ぶべきだ」

日本は「外的な尊敬の形をとらせると、それに応ずる内的な態度が生まれてくる」との教育観であるが、正反対に内的態度、つまり精神が外的な表現と究極の形式を決定すると夫人はが考えていた。質素・平等・誠実を旨とする宗教の教えでもある。

学習院高等科1年のときに生徒たちに将来の進路を聞いている。医者6人、科学者6人、偉人6人。銀行家、教師、ジャーナリスト、技師がそれぞれ3人。実業家、官吏、ホテルマン、学者、政治家、哲学者、作家、スポーツマン、旅行家が少しずつ。戦前の軍人志向とはすっかり変わって売る様子がわかる。この時、皇太子は「ぼくは天皇になるだろう」と書いていた。

離日するにあたって教え子たちに語った「自分で考えよ!」は、最後のメッセージだった。

皇太子の教育を担当した小泉信吉博士とも親しかった。小泉は「広い趣味、心底やさしい気立て、しゃんとした人、ユーモアを解す、魅力的な人」と、皇太子のお妃の条件をあげていた。そのとおりの美智子さんを皇太子はお妃に選んだ。小泉と夫人はそのことをことのほか喜んだ。皇太子夫妻と夫人は、日本でとアメリカで何度も親しく接した。

ヴァイニング夫人は、この本の最後に「窓が開かれたのは確かである。どちらに面しているにせよ、窓というものからは、必ず光がさしこんで来る。そして光はよいものだと私は思うのであった」と記している。その窓から差し込む光は、平成の時代に国民統合の象徴としての天皇の姿を模索し続け、国民各層からの敬愛を集めたお二人の姿に結実したのである。(2017年にヴァイニング夫人について書いているが、今回改めて『皇太子の窓』を読んだのでより深く書くことになった)

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