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「名言との対話」3月12日。松本良順「病人を救うのは医師としての義務である」

松本良順(天保3年6月16日(1832年7月13日ー明治40年(1907年)3月12日)は、江戸末期から明治期の医師。大日本帝国陸軍軍医総監(初代)。

漢方医佐藤泰然の次男として江戸に生まれ。幕府の奥医師松本良甫の養子となる。坪井信道らから蘭学を学んだ後、長崎でポンペに師事し、日本初の洋式病院の長崎養生所の開設に尽力する。1862年、江戸で緒方洪庵の死去の後をうけて医学所頭取。徳川家重慶喜の2台の侍医をつとめた。戊辰戦争会津で捕らえられる。

1871年陸軍最初の軍医頭となり、日本陸軍の医療体系の確立に尽力し、1873年には初代の陸軍軍医総監となる。貴族院議員、男爵。松本良順は健康のために牛乳を飲むことと海水浴を奨励した。

2017年に佐倉順天堂記念館を訪問した。佐倉順天堂は1843年(天保14年)に、松本良順の父である蘭医・佐藤泰然が蘭医兼外科の診療所として2000坪の敷地に創設したものである。当時の佐倉藩主は「西洋堀田」とあだなされる蘭癖大名堀田正睦だった。「日新の医学、佐倉の林中より生ず」といわれた。順天堂とは、「天の道にしたがう」、つまり自然の理に従うという意味だ。この言葉をみて私の郷里・中津にある村上記念病院のことを思いだした。村上記念病院村上医家史料館『医も亦自然に従う 村上医家事歴志』という本がある。天道、自然に従うというのが医療の根本思想なのだろう。

順天堂は、歴代にわたって人物が継続して出ているのに驚いた。実子を後継者とすることにこだわらず、医者として有能な人物を選び養子とすることが代々受け継がれている。これが順天堂の発展の大きな要因であった。そして実子も人物が多い。

佐藤泰然(1804-1872年)。泰然の次男・松本良順(1832-1907年)。領民救済のため佐倉養生所を設立した佐藤尚中(1827-1882年)。近代的病院としての体裁を整えた佐藤瞬海(1843-1911年)。日清・日露戦争の陸軍軍医総監となった佐藤進(1845-1921年)。外務大臣逓信大臣となった、佐藤泰然の5男の林董(1850-1913年)。病院の整備をし順天堂分院を設置した佐藤恒二(1878-1952年)女子美術学校校長をつとめた、佐藤尚中の長女で佐藤進の妻の佐藤志津(1851-1919年)。

松本良順は吉村昭『あかつきの旅人』、司馬遼太郎胡蝶の夢』で主人公になっている。この二つの書は私も読んでいる。

冒頭の「病人を救うのは医師としての義務である」は、若き日に指導を受けた師匠・ポンペの言葉である。今では当たり前のように聞こえるが、幕末の時代にあっては、人の身分は問わず、病人を救うのは医者としての役目だという思想は新しかったのである。松本良順は若き日の師であるポンペの思想を生涯守り、発展させ日本の近代医学界の基礎を固めた人物である。

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