「名言との対話」1月19日。勝海舟「内でけんかをしているからわからないのだ。一つ、外から見てご覧ネ。直にわかってしまふよ」
勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉- 明治32年〈1899年〉1月19日)は、日本の武士(幕臣)、政治家。
1868年、新政府軍参謀の西郷隆盛(1827年)と会談し、江戸城無血開城を成功させる。このとき、勝は46歳、西郷は43歳だ。この時の様子や評価は多い。江藤淳『海舟余波』tという著書を読んだ。「彼の前には、近代国家の可能性がひろがり、彼の後ろには幕藩的過去がひろがっている。明日に迫った江戸城明渡しは、二つの歴史の関節をはめるような仕事である」と書いている。勝は薩摩側に立っていた英国公使・パークスと接触し、和平と慶喜助命による安定した市場の確保という点で利益が一致することを確認し、武力解決には同意しがたいと薩摩に申し入れさせている。また、江戸の治安を任せないと大変なことになるぞとの脅迫も使った。外を押さえ、内の状況を逆手にとって、西郷を包み込んで、身動きをとれないようにしたという放れざわのような政治手腕を発揮する。実は会談の前に勝敗は決まっていたのである。
明治新政府では、勝は外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された。この出処進退について、福沢諭吉(1835年生)から「瘠我慢の説」で非難された勝は、1892年に返答を送る。勝海舟37歳、福沢諭吉25歳の両者は咸臨丸で一緒に航行した仲だった。「行蔵を我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」と返事をする。批評家に、局に当たらねばならぬ者の「行蔵」の重苦しさがわかってたまるか。自分は日夜自分を奮い立たせて継ぎはぎ細工を続けてきた。その一刻一刻がおれの「行蔵」だ。それが我慢というものだ。そういう心境だったのだ。また福沢は勝は「得々名利の地位に居る」と非難している。叩き壊すことは簡単だが、まとめるには苦心がいる。権力の中枢に謀叛を起こしうる力が存在し、それが統制されていれば、一大勢力になる。幕臣の代表として高位高官になることは必要だった。最大の潜在的野党として異常な沈黙を守ったのである。我慢と苦学の後半生であったのだ。これが江藤淳の見方だ。
勝は旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。相談ごとで訪れる人は絶えることがなかったという。旧幕臣の世話を焼いていたのである。
勝海舟の生き方は、一貫している。この『海舟余波』の読後には、変節漢呼ばわりする福沢の説よりも、海舟の生き方に軍配をあげたい気がする。
慶喜とは微妙な関係で、維新後は長く断絶していた。慶喜に末子精を勝家の養嗣子に迎え、小鹿の娘伊代を精と結婚させることを希望し慶喜とも和解している。
義理の弟でもあり、師事した12歳年長の佐久間象山が書いた「海舟書屋」が気に入って書斎に掲げた、それが海舟という号を使うきっかけだ。象山については「物知りだった」、「学問も博し、見識も多少持っていた」と評している。海舟は身長156-157センチと小柄だった。
別荘の洗足軒(建坪33坪)は津田梅子の父・津田仙のすすめで購入した。この地に海舟関係の資料を集めた「清明館」は江戸城開城60周年に着工、昭和8-10年の数年の間に、404回のセミナーで4万人近いを集めた。仏教講義198回、儒教67回、神道・国史20回、政道・法制63回、国民教化56回(25060人)。この清明館が2019年9月7日に開館した勝海舟記念館となった。正面のネオゴシックスタイル、内装はアール・デコ調の建物である。2019年に勝海舟記念館を訪問した。
1937年には「南洲海舟両雄詠嘆之詩碑」除幕式に合わせて開催された講演は徳富蘇峰(1863年生)が講師だった。その写真が図録にある。蘇峰は「如何にも食へない親爺」であり、目を合わせるだけで腹の底を見透かされているような心地になり、精神的に非常に疲労を覚えるほどエネルギーの塊のような人だった、と海舟を述懐している。
2013年に江戸東京博物館で開催されたビッグイベント「自分史フェスティバル2013」で私は冒頭の基調講演を行った。この時、勝海舟の五代目の玄孫(やしゃご)・1962年生の高山みな子さんのスピーチも興味深かった。海舟の父の勝小吉『夢酔独言』や勝海舟『氷川清話』の話題では、一種の自分史であると思った。勝海舟について高山さんは、この述べている。命を大事にしていた。江戸の町を救いたかった。下戸。もなか、パン、ケーキが好き。お菓子部屋。そして「海舟に関する言い伝えを自分史でまとめてライフワークにしたい」とも語った。
さて、勝海舟の言葉を折に触れて集めてきたので、その一部を記す。
「気は長く、勤めは堅く、色うすく」「武士道は人道と云ふてさしつかへないよ」「事いまだ成らず小心翼々。事まさに成らんとす大胆不敵。事すでに成る油断大敵」「行いは俺のもの、批判は他人のもの、私の知れた事ではない。」「世間は生きている。理屈は死んでいる」 「ナニ、誰を味方にしようなどといふから、間違うのだ。みんナ、敵がいい。敵が無いと、事ができぬ」「何も、用意しないで、フイっと往って、不用意に見て来なければならぬ」「事を遂げる者は愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない」。
勝海舟の『氷川清話』の幕末から明治にかけての人物評が面白かった。
藤田東湖「本当に国を思うという赤心がない」。西郷南洲「いわゆる天下の大事を負担するものは果たして西郷ではあるまいか」。佐久間象山「物識りだったヨ。、、しかし、どうも法螺吹きで困るよ」。木戸孝允「西郷などと比べると非常に小さい。しかし綿密な男さ。使い所によりては、ずいぶん使える奴だった」 。陸奥宗光「ひとの部下について、その幕僚となるに適した人物、」、、、。 勝海舟の人物を見る眼は冴えている。
父の勝小吉の自伝『夢酔独言』は、「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ」から始まり、最後は「よくよく読んであじおふべし。子々孫々まであなかしこ」で終わっている。この無頼の血筋が、歴史の大舞台での海舟の大胆な偉業に活かされているように思う。人がその人を外から書いた伝記より、自己弁護も含めて自分で自分を内から描く自伝を私は好きだ。海舟という英雄が現れるにいたった親やその一つ前の世代の雰囲気を知ることができる。、また難局に挑む当事者である海舟という人物を持った国の幸運を感じざるをえない。
「内でけんかをしているからわからないのだ。一つ、外から見てご覧ネ。直にわかってしまふよ」。 時代の流れが見え、世間の動きも承知し、そして自分の属す幕府の腐敗と疲弊と貧しい力量も知っていたこの男が、組織の命運をかけて保守側の切り札としての役回りが巡ってくる。その海舟は背後から弾を撃ってくる輩に憤懣やるかたなかっただろう。知恵があり、実務的才能がケタはずれだった海舟の英雄的心持はむしろ敵側が知っていた。内でけんかをしているのは、外が見えないからだ。海舟のこの言葉は内部に目が向かいがちな我々に目を開かせてくれる。
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