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「名言との対話」7月18日。浅田常三郎「なんでだんねん?」

浅田常三郎(あさだ つねさぶろう 1900年7月18日〜1984年3月7日)は日本の物理学者。

大阪府出身。東京帝大理学部物理学科卒。長兄の浅田長平は京都帝大卒で、神戸製鋼所の社長になった「鉄鋼の巨人」であり、三郎はこの兄の感化を若い頃から受けている。

浅田は帝大で理論物理学の大御所である長岡半太郎に師事した。卒業後は長岡の助手として理化学研究所に入り、長岡の配慮でノーベル化学賞受賞者のフリッツ・ハーバーのもとでの2年間のドイツ留学後に、長岡が初代総長をつとめた大阪帝大で職を得た。

長岡半太郎初代総長のもとには、長岡半太郎大阪大学初代総長時代は、若手研究者の中に湯川秀樹(1907-1981年)や朝永振一郎を入れている。二人とも弟子の仁科芳雄の弟子にあたる。後にノーベル賞候補者の推薦委員になり、「湯川はオリジイナリティがある」として「初めて十分な自信を持って、同国人を推薦できる」と湯川を推薦し、湯川秀樹は日本人初の受賞をしている。

東北大の八木秀次が理学部のトップとして、最初は兼務で後に専任として赴任している。八木アンテナで有名な八木は初代理学部教室主任であった。後に京大から参加した論文を書かない20代の湯川は叱責され、半年後に書いた初めての論文がノーベル賞という金的を貫いた。

大阪大学理学部創立当時の思出」で、浅田は八木からは「研究者は単調な計算などに精力を集註すべきではない。今に計算機人形が出来るだろう」と言った。また「平凡な動物だけを集めても誰も見に行かない。理学部も、動物園のような事が望ましい。一芸一能に長じた人達の集団であってほしい。世間の噂を気にしないで、自分の専門に精進すべきだ」と説いて深い感銘を与えたと述懐している。

浅田常三郎は、物理学を現代社会に応用し、役に立てようと実験物理学を推進した。実感の現場である産業界とも親しくつきあった。教え子にソニーを創業した盛田昭夫が出ている。盛田は浅田に教えをこうため阪大理学部に入り師事する。浅田はソニーに決定的な危機を3度も救っている。盛田は「何かすべての思考の道筋を先生から受け継いだような気がしてならない」と感謝している。浅田の人柄に惚れこんだ弟子たちで構成する「浅田会」の初代幹事は盛田であった。

浅田常三郎は、「2秒おきにあっちゃこっちゃ振れてると思うとくなはれ」という堺商人の出らしい関西弁で講義しし、講義の途中で疑問が生じると、「なんでだんねん?」を連発した大阪弁の庶民派物理学者であり、「産業は学問の道場なり」と喝破した金属工学の本多光太郎と同様に、産学連携の祖となった。


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