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「名言との対話」3月20日。五島昇「人生四倍、休戦の哲学」

五島 昇(ごとう のぼる、1916年(大正5年)8月21日 - 1989年(平成元年)3月20日)は、日本の実業家。

東急グループの創業者・五島慶太の長男。東芝に勤めたあと、1945年に東京急行電鉄に入社。1954年5月から37歳で社長に就任。1959年に父が亡くなった後、東急百貨店、東急不動産等で構成する東急グループの実権を握り、父慶太の負の遺産である「東急くろがね」「東洋精糖」「東映」の各事業の整理を段階的に実行した。一方でグループを再編し、祖業である鉄道業・運輸業と関連性の高い交通、不動産、流通、レジャー、ホテルなどの事業を選択し集中を行った。伊豆急行伊東〜下田間、東急新玉川線、田園都市線開通、多摩田園都市開発などのプロジェクトを遂行した。また東急建設、東急エージェンシー、東急ホテル、東急ハンズ、渋谷109などを手掛けた。父は大規模開発志向だったが、五島昇はソフトに注力した。1984年、永野重雄の後任として日本商工会議所会頭に就任している。

ゴルフのハンディが6という名手であったことでわかるように、「仕事に熱を入れない、ゴルフ三昧の遊び人」という評価があったが、実際には東急中興の祖といわれるまで実績をあげた。

「言葉でも文章でも相手がわからなければ何にもならないんだもの。平易な言葉で分かるような言い方をしなければ駄目なんだ」。「よき国際人でなく、よき日本人を作ればそれが国際的に通用するんです」。「私はいつも向こう傷を恐れるなと言うんです。向こう傷は男の勲章だと」。

本日『梅棹忠夫著作集』第20巻をたまたま読んでいたら、「かけ足のオーストラリア」という項の中に五島昇の名前がでてきたので驚いた。ダーウィンの西オーストラリア大学に日本庭園があり、東急の五島昇氏が寄贈の寄贈で、日本建築と畳敷きの座敷もあったとある。こういう国際交流にも熱心だったのだろう。

生存中の人物は書かないと決めていた人物論の名人・城山三郎は、五島昇のくっきりした個性と、「人生四倍、休戦の哲学」をテーマとする『ビッグボーイの生涯』を書いた。まだこの本を読んでいないが、城山三郎のいう「人生四倍、休戦の哲学」、「休戦の価値」「休戦の美学」を読むことにしたい。



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