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「名言との対話」7月22日。浜口庫之助「大衆の中にあるものを拾うのが流行歌を作る人のいちばん大事な観点じゃないかと思う]

浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 - 1990年12月2日)は、日本の作曲家、シンガーソングライター。

兵庫県神戸市生まれ。音楽を愛する一家に生まれ、5才で楽譜を読めるようになる。東京府立第四中学校卒業。一高受験に失敗し働く。後に青山学院大学商学部を繰り上げ卒業する。ジャワ島で農園経営をする商社に就職しマランに赴任。帰国後は音楽活動に入り、ラテンバンド「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」として1953年から1955年まで3年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。

1957年、新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを見た浜口は、外国の音楽を「演奏」するのではなく日本の曲を「創作」することこそが重要だと覚睡する。

40歳、「日本人として誇れる日本の歌を作りたい」と、すべてを投げ捨て作曲家への道を歩む。30代の新人作詞家・星野と、40代の新人作曲家・浜口は、レコード会社の指示で無理矢理コンビを組むことになる。育った音楽環境が全く違う二人であり、戸惑もあったが、「黄色いさくらんぼ」のヒットが生まれる。

NHKアーカイブス「人物録」の映像をみた。1960年に守屋浩が歌って大ヒットとなった「有難や節」(作詞・作曲)について語っている。「腹が減ったらおまんま食べて、寿命尽きればあの世ゆき」という驚くべき歌詞とリズムだった。私の子ども心に響いた記憶がある。安保騒動で世の中が騒然としていた雰囲気を吹き飛ばすような歌を作ろうとしたのである。世相を感じ、つかむ力が飛び抜けていた。

日本の詩に西洋音楽のリズムとメロディーをドッキングさせ、ホップで明るい曲想が特徴だ。西郷輝彦「星のフラメンコ」、マイク真紀「バラが咲いた」もヒットしていく。石原裕次郎との出会いがあり、「夜霧よ今夜も有難う」「粋な別れ」「恋の町札幌」などの名曲をつくっていく。浜口庫之助は「ハマクラ」と呼ばれた。時代をつかみ、大衆のための歌づくりをする、「ハマクラ・メロディ」の誕生である。

僕は泣いちっち(歌:守屋浩)(1959年)。涙くんさよなら(歌:坂本九、ジャニーズ、和田弘とマヒナスターズ、ジョニー・ティロットソンの競作)(1965年)。愛して愛して愛しちゃったのよ(歌:田代美代子・和田弘とマヒナスターズ)(1965年)。星娘(歌:西郷輝彦)(1965年)。星のフラメンコ(歌:西郷輝彦)(1966年)。バラが咲いた(歌:マイク真木)(1966年)。夕陽が泣いている(歌:ザ・スパイダース)(1966年)。風が泣いている(歌:ザ・スパイダース)(1967年)。夜霧よ今夜も有難う(歌:石原裕次郎(1967年)、吉田拓郎(1977年))。粋な別れ(歌:石原裕次郎)(1967年)。エンピツが一本(歌:坂本九)(1967年)。空に太陽がある限り(歌:にしきのあきら)(1971年)。恋の町札幌(歌:石原裕次郎(1972年)、、、、。

こうやって並べてみても、その多彩さに驚いてしまう。作詞作曲した歌も多いのも特徴だ。そしてほとんどは今でも私は歌えるから、心に長く残る名曲だらけなのだ。

浜口庫之助は40歳という遅い出発で、しかも比較的若い73歳で亡くなっているにもかかわらず、生涯で5千曲をつくっている。古賀政男と古関裕而も5千曲であり、歴代最高クラスの作曲数である。最近では2020年9月20日放送のNHK「ザ・偉人伝」をみてこの作曲家への理解が深まった。

妻と死別した10年後、華麗なる恋愛遍歴に終止符を打ち、女優・渚まゆみと結婚し、57歳で愛娘が誕生し、子育てに目覚める。晩年にはがんが発覚し、凄まじい闘病生活を経て、島倉千代子に「人生いろいろ」を贈っている。1990年に叙勲(勲四等)の打診があった際には「勲章のため曲を作っているのではない」という思いから辞退している。

「大衆の中にあるものを拾うのが流行歌を作る人のいちばん大事な観点じゃないかと思う」というハマクラは、「流行歌は作るものではなく、生まれてくるもの」との名言も吐いている。大衆で構成された時代という怪物が要求する歌、口ずさみたくなる歌は、必ずあらわれる。ハマクラは、「流行歌」という言葉をよく使っている。時代感覚に優れた人だったのだ。とらえどころのない時代の心にヒットした歌が流行する。歌というものは長く生き続けるとつくづく思う。作曲家という職業は時代を生きる人々の心を描き出し、生きる勇気を与える神聖な仕事だ。

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