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4月6日。 長谷川一夫「最後まで二枚目でいく、こんな難しいことないんだよ」

長谷川 一夫(はせがわ かずお、1908年2月27日 - 1984年4月6日)は、日本の俳優。旧芸名に林 長丸(はやし ちょうまる)、林 長二郎(はやし ちょうじろう)。

映画界に転身した時、関西劇界の寵児・林長二郎、映画界に入ると騒がれた。大正が昭和に変わったその日、大正15年12月25日に18歳の長二郎は松竹加茂撮影所の門をくぐる。「得意の演出振りに日本映画界を攪乱せしめんとする」と宣言した。

この水もしたたる美男子は「稚児の剣法」で人気スターになり、松竹時代劇の看板俳優となった。その後東宝、大映に移り、300本以上の作品に出演。舞台やテレビドラマでも大きな活躍を見せた。没後に俳優では初の国民栄誉賞を受賞した。 長谷川一夫は本名である。

この世紀の二枚目は主演男優として、当時のトップ女優と共演している。その女優を挙げてみよう。田中絹代、岡田嘉子、山田五十鈴、李香蘭、高峰秀子、京マチ子、高峰三枝子、音羽信子、淡島千景、山本富士子、岸恵子、香川京子、若尾文子、、、。実に豪華な顔ぶれだ。うるんだまなざしは「眼千両」と言われ、世の女性ファンを魅了した。

「五十五歳になったら映画はやめようと、若いころから思っていました。皺くちゃのオッサンになって映画出てたらおかしいでしょう。私は二枚目で売ってますから、いい男でなけりゃならないんですよ。顔がたるんでから、いい男の役で出るのは嫌ですから」と、舞台に戻った。その後、1964年(昭和39年)にはNHK大河ドラマ『赤穂浪士』に大石内蔵助役で主演し、当たり役のひとつとなった。このドラマの演技は私もよく覚えている。

不思議なくらい運がよく、長谷川の去ったあとの会社は、松竹、東宝、大映も落ち目になった。

身長162cmと小柄であったのは意外だが、美人として誰もが認めた女の二枚目・山本富士子は、冒頭の二枚目でいることに難しさを直接聞いている。長谷川一夫は「 ずっと二枚できたから、老け役はしてはならない」という決心を最後まで貫いていた。俳優には年齢が進むjに連れて、役柄も変化する人も多いが、この俳優は「永遠の二枚目」というイメージを大切にし、観客が望む夢を与えることを至上としたのである。

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