「名言との対話」 3月18日。渋谷天外「生まれてくる子供のためにいい仕事を残して置きたい」
二代目 渋谷 天外(にだいめ しぶや てんがい、本名・渋谷 一雄、1906年(明治39年)6月7日 - 1983年(昭和58年)3月18日)は、松竹新喜劇を創立した上方を代表する喜劇俳優、劇作家。
松竹新喜劇の藤山寛美の名演技はよく見た。その師匠にあたるのが渋谷天外である。名前と姿は私も覚えている。今回、大槻茂『喜劇の帝王 渋谷天外伝』(小学館文庫)を読んで、天外の志の高さに驚いた。単なる喜劇役者ではなく、脚本家であり、座長であり、喜劇界の革新者であったのだ。脚本家として使ったペンネームは「館直志」である。ゆがんだ現実に対して腹を立ててつけている。生涯で書いた脚本は700本ぐらいという。
孤児であり、放蕩無頼な生活を送る。曾我廼家十郎は17歳の天外に「喜劇に生きるなら脚本を書け」とすすめた。松竹の白井松次郎に命令されて借金1万2千円ともども親父の天外の名を継ぐのだが、七光りでトクをする襲名制度は名門のずるい自衛策だとわかる。
うまい役者だった座長の曾我廼家十吾は「喜劇の原点は俄(にわか)にある」という考えだった。築地小劇場の芝居に感激する天外の目指した新しい喜劇とは路線が違った。俄には筋もなにも分からない。役者が好きではなく脚本家であった天外は筋がある芝居を目指した。20代の後半は、しごかれ、涙で酒を呑んだ。しかし近代喜劇ともいうべき天外の人情喜劇ともいうべき家庭劇は15年続いている。天外は劇作家だった。
「私は脚本もいささか、いや何本か残るかも知れない。子供は当然生き残る。役者は藤山その他を残した。とすると、何も書き残すこともあるまいに、書き残しているのが不思ギ。それが人間の生存本能の変形か」
「笑わせるのが喜劇だと思っている役者と批評家がある間は、喜劇は笑わせるだけで終わるだろう」「本当の人間喜劇はわかってくれる奴は居ない」
喜劇(コメディ)は知性に訴えて成立する。チェーホフの「桜の園」が喜劇だ。笑劇(ファースト)は官能に訴えて成立するもので肉体の訓練が必要だ。これにアドリブ、どつき、ひっくり返りの滑稽劇(アチャラカ劇)が登場した。
名優でライバルでもあった座長の曾我廼家十吾が退団し天外は松竹新喜劇の座長となった。脚本家出身の経営者としての手腕は大したものだった。内部をまとめる統率力、利益をあげ続ける企画力、宣伝力は抜群だった。天外は勃興期にあったテレビを嫌った。素人芸を要求されるから芸が荒れるからdだ。そして天外は久保田万太郎や三島由紀夫などの作品を上演する文芸路線も手がけていく。
十吾と寛美は似ている。天才役者・寛美は天外が敷いた喜劇の路線を否定していく。それは俄路線への復帰だった。寛美は天外の脚本は時事を扱い、十吾の脚本は人間を描いたとみていた。俄から、演劇へ、そしてまた俄へ。俄はアドリブだから寛美以外の役者にはこなせない。天外が倒れた後、寛美は実質的な座長になる。しかしアイデマンではあったが脚本は書けなかった。
お客が笑っているからいいというのは思い違いだと厳しい目を持っていた渋谷天外は「笑い声は批判の声として聞く気持ちが大切です」という。その予言通り、天外が病に倒れ、寛美人気が沸騰したが、後に劇団は低空飛行を続け、190年の寛美の死後に最大の危機を迎え、三代目天外が代表・座長となった。今はコント主体の軽演劇の吉本新喜劇の全盛期であるが、松竹新喜劇は寛美の娘の藤山直美らが涙を誘う物語性のある人情喜劇で対抗している。
妻の喜久栄は、天外の夢は劇場をつくりいろんな喜劇と資料を集め、若い役者を育てて舞台に出すことだったと語っている。喜劇の記録の整備をやろうともしていた。学究肌でもあり、大阪の劇団に東京を含めた新しい血を入れようとしていた革新者だった。升田幸三、横山隆一、永六輔を役者にしたかったそうだ。天外は44歳で子供を授かる。「生まれてくる子供のためにいい仕事を残して置きたい」と仕事に意欲を持っていた。子孫のために、歴史の流れの中に、いい仕事を残そうとした渋谷天外の志を感じながら、「お笑い」の時代を眺めることにしよう。
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