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「名言との対話」4月5日。古河市兵衛「他人様のお掘りになったところを、サラにもう一間ずつ余計に掘りました」

古河 市兵衛(ふるかわ いちべえ、天保3年3月16日〈1832年4月16日〉 - 明治36年1903年〉4月5日)は、明治期の日本の実業家で、古河財閥の創業者。

京都出身。

古河市兵衛は相馬家を買い取り名義人として立てて足尾銅山を買収した。志賀直道(志賀直哉の祖父)が市兵衛の共同経営者となり、その後渋沢栄一も共同出費者として名を連ねた。最初の混乱と苦労を乗り切って後、足尾銅山では立て続けに大鉱脈が発見され、銅の生産高は急上昇し、またたくまのうちに日本を代表する大銅山へと発展した。しかし鉱山の急発展の中、日本の公害問題の原点とも言える鉱毒問題が発生していくことになる。足尾銅山は昭和30年代末まで順調な採掘が続いたが、鉱物資源の枯渇、銅品位と作業効率の低下による赤字のため、閉山の方針を昭和47年に出した。

田中正造の活躍によって足尾銅山鉱毒事件は国家的事件となり、明治30年には政府も古河市兵衛に対し鉱毒予防工事命令を出し、短期間に防毒工事を完了させなければ銅山の操業停止処分を課すという厳しいものだった。実行不可能と言われた工事に市兵衛は巨額の資金を投じて誠実に期限内に完了させたが、当時の知識や技術では鉱毒の除去はできなかった。

「私はいつも「運・鈍・根」を唱え続けてきた。 運は鈍でなければつかめない。利口ぶってチョコマカすると 運は逃げてしまう。 鈍を守るには根がなければならぬ」。「根」が一番だという人もあり、また「運」だという人もいるが、古河市兵衛は「鈍」が一番大事だとの主張である。

冒頭の名言も、銅山をやった古河市兵衛らしく、「掘る」という側面から自分の信条を説明している。確かにあと少しだけ掘ったら宝が出たのに、諦めて多の場所に移動する人のなんと多いことか。事業でもそうだが、個人の興味・関心も浅くしか掘らずに転向する人は多い。まずは10年掘り続けることができるか、それが成否の分かれ目のように思える。

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古河市兵衛の事業は、古河財閥となっていく。2018年。王子駅の隣の上中里の「旧古河邸」を訪問した。明治元勲・陸奥宗光の別邸であった土地を古河財閥が購入し、洋館と庭園をつくった。陸奥の次男が古河に養子に入ったのが縁。政治家と財閥の関係がみえる。

洋風庭園と洋館は日本近代建築の父・ジョサイア・コンドル(1852-1920)の作品。洋館南斜面に3段に構成されたテラス上の整形式庭園と洋館東側に広がる芝庭なら成る。日本庭園は平安神宮や無隣庵で有名な小川治兵衛(18960-1933)の作品。武蔵野台地の斜面から注ぎ落ちる8mの落差を持つ4段の大滝とそこからの流れに渡された橋、築山と枯滝・州浜と雪見灯籠から成る池畔、茶庭と茶室を主要な構成要素とする廻遊式庭園。いずれも当代の第一人者に依頼するなど、財閥の力は大きいものだ。

洋館は、古河虎之助の本邸として1917年に建てられた。住まいと賓客接遇の場として使用された。1926年に虎之助が新宿に転居してからは、古河財閥の迎賓館となった。1階は賓客を迎える洋風建築、2階は生活の場であり和風建築。洋と和が調和された建物だ。第二次大戦後はGHQに接収され英国駐在武官の館となった。その後、放置されていた。近隣の人は幽霊屋敷と呼んでいた。昭和57年に東京都の文化財となり、平成元年より一般公開となった。1階にはビリヤード室、サンルーム(喫煙室)がある。応接室は見学者の喫茶室となっている。

この洋館の主の古河虎之助。明治20年(1887年1月1日 - 昭和15年(1940年3月30日)。写真をみるとハンサムという印象。歌舞伎役者が隣に並びたがらない程の絶世の美男だった。妻・不二子は西郷従道の娘で絶世の美女だった。古河財閥創業者・古河市兵衛の実子。3代目当主。古河財閥多角化に取り組み、総合財閥に発展させた功績がある。市兵衛の晩年の子で、母は柳橋の芸妓。

慶応義塾で小畑篤次郎の薫陶を受ける。普通部卒業後にニューヨークのコロンビア大学に留学。明治38年(1905年)に義兄・潤吉の養子となるが潤吉が36歳の若さで病没し3代目当主となる。また副社長として潤吉を支えてきた原敬も内務大臣就任のため古河鉱業を辞任。虎之助は1907年に帰国。

足尾銅山鉱毒問題で非難の声を漢和するため、1906年原敬の助言で資金難で設置が危ぶまれていた東北帝国大学九州帝国大学の校舎建設費用の寄付を申し入れた。その総額は5年間で106万円に達した。

第一次大戦では、銅の特需もあり古河虎之助は経営の多角化を推進し20社以上を束ねるコンツエルンに発展。1920年の戦後恐慌で経営が失速。1921に古河商事が破綻、1931年には古河銀行を第一銀行に譲渡し、総合財閥として欠かせない商社と金融機能を失った。一方で虎之助は古河電気工業富士電機製造、富士通信機製造など、後に親会社を上回る大企業を輩出させ、古河財閥は発展していった。1940年に虎之助は53歳で死去。養子である古河従純(西郷従道の次男従徳の次男)が継ぐが、敗戦後財閥解体を命ぜられる。

古阿財閥の例は、政界と財界が縁戚関係の構築によって持ちつ持たれつの関係にあったのがわかる好例である。

この3月のニュースを目にした。古河三水会理事会社が共同で設立した一般社団法人古河市兵衛記念センター(2022年11月18日設立)が、1912年に竣工しその後移築・解体された当社旧足尾鉱業所を、往時の場所に「足尾銅山記念館」として復元する建設工事に着工することとなっている。これは実質的には古河市兵衛記念館となるだろう。足尾銅山は公害で大きな問題を引き起こし、田中正造の天皇直訴事件もあり、市兵衛自身も苦慮しその克服に努力したが、なかなか解決しなかった。そういう経緯も展示されるのだろう。

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