5月29日。新藤兼人「私は仕事をして生きてきた。その仕事の中に私自身が含まれていると私は思います。仕事とは、私であり続けること、私とは何かを考え続けることなんです」
新藤 兼人(しんどう かねと、1912年(明治45年)4月22日 - 2012年(平成24年)5月29日)は、日本の映画監督、脚本家。1997年に文化功労者、2002年に文化勲章。
1933年、徴兵検査が終わった頃、「すごい映画に出合った。尾道の“玉栄館”という映画館で見た。山中貞雄監督の『盤嶽の一生』で、人の生き方を考えさせる、知恵の働いた映画だった。「これだっ」と思った、突然ね、映画をやろうと思った」。
33歳、1945年秋に書いた『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化され1947年のキネマ旬報ベストテン4位となり初めて脚本家として実力が認められた。その後、シナリオライターとして活躍。
1949年に独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を設立した。1951年、『愛妻物語』(乙羽信子主演)で39歳にして宿願の監督デビューを果たす。遅咲きの監督だ。1952年、原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表。チェコ国際映画祭平和賞、英国フィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受けた。この頃、主演の乙羽根信子と愛人関係となる。
以降は自作のシナリオを自らの資金繰りで監督する独立映画作家となり、劇団民藝の協力やカンパなどを得て数多くの作品を発表。1960年『裸の島』を制作し、1961年モスクワ国際映画祭でグランプリを獲る。
出生した〈広島〉と〈性と人間〉をテーマとし、手がけた脚本は370本にもおよび多くの賞を受賞した。監督に加え、脚本家、プロデューサー、経営者、教育者、著述者など多彩な活動を行った。1978年(昭和53年)に乙羽信子と再婚。
近代映画協会は1960年代に100近くあった独立プロのうち唯一成功し、現在も存続し、映画作品を送り出している。日本のインディペンデント映画の先駆者であり多くの門下生を育てた新藤監督の業績を讃えた新人監督のための「新藤兼人賞」がある。
100歳を迎え、東京都内で誕生会が開かれ、集まった映画人を前に「これが最後の言葉です。どうもありがとう。さようなら」と挨拶した。2012年5月29日、老衰のため東京都港区の自宅で亡くなった]。満100歳であった。
「自分は世界で唯一の貴重な存在なんだと考えることが大切なんです」という新藤は「私の財産は、挫折なんです」というほど挫折が多かったが、それを財産として成長を遂げた。新藤は、映画人という天職に70年以上の期間を費やした。それは自己発見と自分づくりの100年におよぶ仕事人生であったのだ。「人は死んでしまうが、死なない人もいるのだ」。残した作品には永遠の命があり、新藤兼人は死んではいない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?