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「名言との対話」4月25日。大槻玄沢「およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず。思いさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず」

大槻 玄沢(おおつき げんたく、宝暦7年9月28日1757年11月9日)- 文政10年3月30日1827年4月25日))は、一関藩出身の江戸時代後期の蘭学者

大槻玄沢は 『解体新書』の翻訳で有名な杉田玄白前野良沢の弟子でその才を見込まれて両師から可愛がられた。玄白からは医学、良沢からオランダ語を学んだ。「玄沢」とは、師である2人から一文字ずつもらってつけた通り名である。

玄沢は師の指示で『重訂解体新書』を完成させている。仙台藩医として江戸詰時代にはシーボルトとも交流があった。『蘭学階梯』に刺激を受けた全国の秀才が玄沢のもとに集まり、江戸蘭学の中心的存在となった。

「西の頼家、東の大槻家」ともいわれた。玄沢の息子には漢学者の大槻磐渓、孫に『言海を編んだ』国語学者大槻文彦がおり、郷里の一関(現在の岩手県)では、この3人を「大槻三賢人」と称している名門である。

大槻盤渓は子ども時代から才能があり、桂川甫周が「能学家を蘭学者の中に育てなければならない」と言うと、父の玄沢は10歳にもならない盤渓を指して「わが家の六次郎(盤渓の幼名)がその任に当たりそうに思える」と語った。大槻盤渓は、仙台藩藩校養賢堂学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客である。

大槻文彦について。小林秀雄は日本の近代の入口を求めて、近世を旅する。それは武者達が闊歩する戦国時代から始まるのだが、その風潮は「下剋上」という言葉で表わされる。大槻文彦の「大言海」には、「此語、でもくらしいトモ解スベシ」とある。下剋上とはデモクラシーのこととすれば民主主義を標榜する近代は、実は近世から始まるともいえるのである。高田宏は1978年言語学者大槻文彦の評伝『言葉の海へ』を書いている。この書は大佛次郎賞亀井勝一郎賞を受賞している。

さて、大槻玄沢は「遂げずばやまじ」の精神で、玄白から命ぜられて『解体新書』の改訂に取り組む。1790年から始めて、1798年には『重訂解体新書』ができた。改訂作業は続き、1804年にようやく完了した。その精神が現れた偉業である。著書や翻訳書は、300巻に及ぶという仕事人でもあった。その精神は、息子の盤渓、孫の文彦にも引き継がれて、それぞれ歴史に名を残す仕事を完成させている。その源は玄沢であった。この人の影響力は何世代にも渡った。

因みに、並び称された「頼家」。朱子学者の頼春水、春風、杏坪の三兄弟は、学問、詩文、書に優れ「三頼」と呼ばれた。春水の子が『日本外史』を書いた頼山陽、その三男が幕末の勤王の志士で詩人の頼三樹三郎

短歌の佐々木信綱の佐々木家は、子の治綱とその妻の由畿、孫の幸綱、曾孫の頼綱と定綱と続いている。

人物論をやっていると「家業」というものが近代において重要な位置を占めていることがわかる。継ぐか。捨てるかであるが、学問の分野においても「家業」というものの重みと凄みを感じる。

大槻玄沢の「およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず。思いさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず」は、始めることは簡単だが、やり遂げることは容易ではないと諭した言葉だ。みだりに、うかつにことを始めてはならないのだ。

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