見出し画像

「名言との対話」(「大正から昭和へ」誕生日編)1月22日。真保正子「感動のない教育は、真の教育ではない。教師は相手の可能性を引き出し、育て上げることが大切だ」

真保 正子(眞保 正子、しんぼ まさこ、1913年1月22日 - 1995年12月19日)は、日本の陸上競技選手・指導者。

『来し方の記5』(信毎選書)を読んだ。信州生まれの作家の平林英子、八橋流筝曲の真田淑子、教育者の高野悦子と並んでいる。この本を読んだ印象は、真保正子は出会いに恵まれた人ということだ。

松井須磨子に憧れて女優を目指していたのはともかく、高等女学校の井出弥門先生からは「何でもいい、日本一になるように努力するんだな。泥棒でもいい石川五右衛門くらいになればなあ!」と教えらえている。

第6回女子陸上競技大会 走幅跳で出場したが、人見絹枝の跳躍の前にあっさりと予選敗退する。その姿を見ていた小学校時代の恩師寺島先生から「お前、随分こえたな。短距離や跳躍より槍投げにかわった方がいいようだ」と教えてもらう。1センチ、1秒を争うより、「日にきらきらと穂先を輝かせて、はるか彼方のグリーンの芝生に突きささる槍投げ」に専念している。真保は寺島先生に感謝している。

在籍した日本女子体育専門学校(後の日本女子体育大学)の校長の二階堂トクヨからは学校に残ることを勧められるが、教職の道に入る。

日本選手団の主将をつとめた1932年の ロサンゼルスオリンピック大会で初日に陸上女子やり投げで4位に入賞し励ました。

1934年の第4回世界女子五輪ではロンドン大会では4位入賞。46日かかった船旅では、他の競技の選手たちとは違って、体重に比例して投力がつくとして食べ放題だったと回顧しているのは愉快だ。選手引退後も1970年に大谷女子大学(現在の大阪大谷大学)教授に就任する。さまざまな体育関係の仕事を引き受けている。「スポーツは手足の技をいうのではなく、心で動くのである。心で跳ぶのである。心で投げるのである」という真保は、世界各国を訪問して「日本ほどよい国はない」と結論づけている。

1977年に日本女子体育大学の同窓会である松徳会の会長となり、1981年に日本女子体育研修会館を建設の偉業も成し遂げた。総工費1億5千万円のの大事業だった。1992年まで会長を続けている。

信州上田の真田幸村を自分の選んだ道に殉じた信念の人を尊敬していた真保正子の教員生活50年の結論は「感動のない教育は、真の教育ではない。教師は相手の可能性を引き出し、育て上げることが大切だ」である。立ち居振る舞い、言葉、交流によって感動を与え、相手の可能性を引き出すことが教師の役割だろう。よき教師との出会いは最上の出会いになるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?