6月22日。滝沢修「俳優の仕事とは、結局は自分がどんなに豊かであるかに尽きる」
滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年11月13日 - 2000年6月22日)は、日本の俳優、演出家。
1924年築地小劇場に第1期研究生として入る。左翼劇場、中央劇場を経て、1934年新協劇団の結成に参加。久保栄の薫陶を受けて『夜明け前』の青山半蔵,『火山灰地』の雨宮聡などですぐれた演技を示した。人物表現の綿密さ、長台詞の味わいの深さ、重厚な演技で、劇団の中心的俳優となる。
戦後は東京芸術劇場、民衆芸術劇場の結成を経て、1950年宇野重吉らと劇団民藝を創設して代表を務め、日本の新劇を代表する俳優となった。民藝の二本柱は滝沢と宇野であり、「剛の滝沢、柔の宇野」と称された。
1951年(昭和26年)の三好十郎作『炎の人--ヴァン・ゴッホ小伝』ではゴッホをリアリズム演劇の最高峰といわれる演技で芸術祭賞、毎日演劇賞を受賞する。この役は生涯の当たり役となり、公演は83歳まで続けている。鬼気迫る役作りと重厚な演技で「新劇の神様」と呼ばれた。
映画では新藤兼人監督の『原爆の子』で、息子夫婦を原爆で失い幼い孫と貧しい生活を送る盲目の老人を力演し、第1回国際平和映画祭最優秀男優賞を受賞する。
息子の滝沢荘一著 『名優・滝沢修と激動昭和』(新風舎文庫)は、、2005年(平成17年)に日本エッセイストクラブ賞を受賞している。
滝沢修は戦前に治安維持法で捕らえられた1年4ヶ月の獄中生活の中で、小学校時から好きだったゴッホの伝記を読み、舞台化の夢を描き実現させる。『炎の人』は滝沢の当たり役となり、369回の公演回数を数えた。滝沢のストイックな演技は、自分を磨きあげたその豊かさから出ているのだ。ゴッホは自分の目が本当に見たものを描く。いらないものは捨ててしまう。大事なものだけ強調して描く。その画法は滝沢自身の演技方法と通じるものがあると回想している。滝沢はゴッホに自分自身を見ていたのだ。自分以上の演技はできない。
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