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「名言との対話」12月9日。瀬島龍三「用意周到、準備万端、先手必勝」

瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年明治44年)12月9日 - 2007年平成19年)9月4日)は、日本陸軍軍人実業家

富山県小矢部市出身。陸軍士官学校で恩賜の銀時計、陸軍大学ではトップで卒業し恩賜の軍刀を拝受し、御前講演を行った。陸軍の参謀本部で仕事をした。12月8日の開戦の暗号「ヒノデハヤマガタ」を考案。日本降伏後に軍使としてソ連軍との調停にあたる。そのまま抑留され、シベリアで11年間過ごす。

1956年、帰国。1958年伊藤忠商事に47歳で入社。1962年取締役、常務。1968年、専務。1972年、副社長。1977年、副会長。1978年、会長。

財界活動に転じ、1981年から土光臨調に入り官房長官役。中曽根政権のブレーンとして活躍するなど、永田町の妖怪の異名もある。

晩年には2007年の安倍晋三首相の「美しい国」の具体策として、地球温暖化対策などを提出している。享年95。

塩田潮『瀬島龍三「参謀」の後半生』を読んだ。瀬島は、冷静、沈着、温和、クールな人物で、高い識見をもとに「混乱したものを整理して論理立てていく能力」に優れていた。本人は「大東亜戦争で国民に多大な迷惑をかけた」とし「これから自分がやることは日本国民に対する罪滅ぼしである」と全力をあげて活動をしたのである。

伊藤忠商事の越後正一社長は大本営陸軍参謀兼海軍参謀・瀬島龍三の入社にあたって「個々の商売のことは分からなくてもいいから、繊維主体の商社から総合商社へ脱皮する世界戦略を立ててくれ。」と依頼する。そして越後社長は「総合化と国際化」を掲げ、鉄鋼・化学などの非繊維部門を拡充して海外進出を加速。脱繊維路線の推進によって、伊藤忠商事を旧財閥系商社とも互角以上に渡り合える総合商社へ発展させ「中興の祖」と呼ばれた。その戦略と実行を瀬島が担ったのである。

瀬島龍三と思しき主人公・壱岐正を描き、1970年後半に出版された山﨑豊子『不毛地帯』は20代のビジネスマン時代に読み商社の航空機ビジネスを対象とした戦争に似た攻防に胸を躍らせたことがある。その中で、入社に当っての越後をモデルにした社長とのやりとりは、私もよく覚えている。

瀬島は太平洋戦争の敗因をどのように考えていたか。対ソ戦では「ドイツの勝利が前提」であった。日独伊三国同盟については「断じて実施すべきではなかた」。日本は「国力の総合的な判断を無視し」ていた。「民族の性格上、合理的かつ客観的な判断をせず、心情的、希望的な判断へながれていった」と振り返っている。戦後の活動が華々しいだけに、瀬島には大本営参謀としての責任を問う声は生涯ついてまわった。

日本経済新聞室伏稔伊藤忠商事)の「私の履歴書」は、ビジネスマンが共感を覚えたようでよく読まれた。上司であった瀬島龍三から室伏が日常業務で指導されたのは、「報告書は必ず紙1枚にまとめる」「結論を先に示す」「要点は3点にまとめる」であった。どんな複雑なことでも要点は3つにまとめられる」が瀬島の口癖で、物事の本質を見極め整理する習慣を身につけることができたと述べている。「混乱したものを整理して論理立てていく能力」の中身は、これであろう。

そして瀬島から「用意周到、準備万端、先手必勝」という姿勢で、徹底的に準備をしてから事を始める、相手に先んじることが必勝への道という教えを受けた、と語っていた。こういった姿勢で商社を押し上げ、財界活動も行ったのであろう。

企画書、報告書のつくり方、実行にあたっての取り組み姿勢など、学ぶべきものが多い。

瀬島龍三の後半生をながめていて、勝海舟を思いだした。江戸幕府の要人であった勝は、明治政府においても顕官として活動している。福沢諭吉から批判されたが、「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候」であった。

勝は旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。相談ごとで訪れる人は絶えることがなかったという。旧幕臣の世話を焼いていたのである。瀬島龍三の心境も勝海舟と似ていたのではないか。

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